白黒的絡繰機譚

二人で食べるドーナツホールズ

「イワン?……ああ、今は休憩だな」

何時もの曜日何時もの時間に顔を出したキースを迎えたのは、虎徹だった。
だるそうに肘をカウンターについた彼は、あまりこの店の責任者という風には見えない。若いバーナビーの方がそれっぽく見える。

「そうか……」

よく人からずれている、察しが悪い、と言われてしまうキースだったが、イワンがいない理由位は分かる。何故なら、自分がその原因を作ったのだから。
差し出されたドーナツもコーヒーも、口にする気にならない。何時もの日常が無いという事実、それだけで後悔の念が湧きあがってキースの胸をいっぱいにする。

「食わねぇの」
「いや……。いただくよ」

機械的にドーナツを頬張り、コーヒーで流し込む。甘い筈のそれらの味がさっぱり分からない。

「……ああ、そうだ。オジサンがイイ事を教えてやるよ」
「?」

にい、と虎徹が意味ありげな表情を浮かべる。

「今日は何時もより一時間早く帰そうと思うんだわ。一時間」
「……」

いちじかん、と口の中で呟く。意味ありげな表情と、イイ事という単語が示すのは、一つしかない。恐らく、だが。

「君は」
「ん?」
「君は、どうして」
「どうしてって言われてもなぁ。……な、甘いものって人を幸せにするって思わないか?」

唐突すぎる問いかけに、キースは一瞬怯み、そして頷く。ドーナツから始まったこの恋は、今までの時間は、幸せだったのだから。

「だったら、なっちまえよ。ここは甘いもん売ってんだから」
「なれるだろうか……」
「なれるさ。信じてみろよ。……俺じゃなくて、アイツをさ」

その時、誰も出てこないスタッフルームへ続く扉が、キィと音を立てたのを、虎徹だけが知っていた。




「そんな顔してる奴を、閉店まで働かせられるかよ」

そう言われ、スタッフルームから追い出されたのが約10分前。珍しくバーナビーも虎徹の言葉に賛同し、イワンの荷物を勝手にまとめると、大きな紙袋とともにそれを押し付けた。

「なんですか、これ……?」
「ドーナツホールズです。どこかのオジサンが、何故か大量に揚げてまして。時間的にこの量がはける訳も無いので、持って帰ってしまってください。ああ、大丈夫ですよ。代金は全てオジサンが払いますから」
「なっ……!!」

虎徹がバーナビーに肩を掴み抗議の声をあげるが、バーナビーはそれを気にした様子も無くイワンを見つめる。殆ど無表情に近いそれが、今日は不思議な色を含んで揺れている。

「先輩」
「は、はい」
「……いえ、何でもありません。気を付けてください」
「え?あ、どうも……」

早く帰れ、とせかす様な二人に押されて、店を出る。

「……!」

従業員出入り口からすぐの場所にある街灯の下。そこには、会いたくて会いたくない人物が、立っていた。

「……やあ」
「キース、さん」
「時間あるかい?」
「……はい」

どこか座れる場所に行かないか、というキースの申し出にかすかに頷く。
逃げる訳にはいかないとイワンは思った。自分を見つめるキースの瞳があまりにも苦しそうだったので。

「今日は」
「うん?」

キースの後ろを、イワンは少し小走りで付いて行く。向かっているのは、すぐ近くの公園だ。

「すいませんでした」
「何がだい?」
「その……時間に、いなくて」
「……」

キースは振り返らない。ほんの少し、気まずい沈黙を挟んでから、何事も無かったかのように続ける。

「習慣は恐ろしいね」
「……」
「君があの時間にカウンターに立っている事は、約束した事でも決められた事でもない。なのに私はそれを期待して店に行くし、君も私を迎えなくちゃいけないと思っている」
「そう……です、ね」

公園の門をくぐる。人気のないそこだが、街灯はしっかり点灯しており、それなりに明るい。
一番近いベンチに、二人は腰かけた。二人の間には、沢山のドーナツホールズが詰まった紙袋が置かれている。

「私は、習慣を変えたくない。君の笑顔と美味しいドーナツとコーヒー、これが欲しいんだ。いや、それ以上に君の全てが欲しい」

見つめる視線が真剣すぎて、イワンは目を逸らす。
そこまで言われる様な、求められる様な人間じゃ自分はない筈なのに。

「そんな、僕は……」
「イワン君は、私が嫌いかい?」
「……」

嫌いではない。それだけはあり得ない。では、好きなのか。好きだとは思う。けれど、それを言葉に出来ない。どこかにつっかえたそれは、まだ消化出来ていない。

「……嫌いなら嫌いだと言ってくれて構わないんだよ。私は習慣を、君を失くしたくないが、君が嫌だと、それを望まないというのなら別だ」
「ち、ちが……!違います……!」

必死の否定に、少しだけキースの表情がほぐれる。もしかして、とイワンは思う。この人にも、怖い事があるのだろうか。真っ直ぐで、優しくて、強いこの人でも。

「性急すぎるのは分かっている。でも、返事を聞きたいんだ」
「……」
「すまない。この前から君にそんな顔をさせてばかりだね、私は」

僕だって、と唇だけで呟く。貴方にそんな顔をして欲しい訳じゃないのに。

「君の笑顔が、好きなんだ。あの店に入った時、正直ドーナツの味よりも、そればかりが印象的で」
「……僕も、キースさんの笑顔がやけに印象に残りました。何時だって笑ってる人なんだなぁ、って」
「すぐ、だったよ。君の笑顔が、欲しいと思ったのは」

キースの横顔は、街灯の光の所為もあるかもしれないが、泣きそうに見えた。

「――そうだ、キースさん。これ……食べませんか」

虎徹と初めて出会った時、言っていた事がある。

「これ?」
「ええと、ドーナツホールズです。なんか店長がいっぱい揚げたとか何とか……」
「ああ……。あの人は、本当にいい店長だね」
「え?あ、そうですね」

上に載っていたプラスチックフォークを取出し、それぞれ突き刺す。口に含むとまだ少し温かかった。

「甘いね」
「甘い、です」

二人の表情がほころぶ。
虎徹は初めて会った時から、ずっとこう言っていた。
「甘いものは、人を幸せにするんだ」と。

「僕は正直……キースさんみたいに優しくないし、強くもないし、何が出来る訳でもないです」

ぷすり、とまたドーナツを突き刺す。

「でも、キースさんにこうやって甘いものをあげる事は出来ます。僕が作ったんじゃないですけど……。でも僕はハイスクールを卒業してもずっとあそこにいるつもりなので、何時かはカウンターだけじゃなくて、キッチンも任せてもらえるようになると思います」
「……イワン君」
「さっきキースさんは、僕が貴方を迎えなくちゃいけないと思ってる、って言いましたよね。やっぱりあれは、違います。僕は迎えたいんです、貴方を。今日も本当は扉の前まで行ったんですけど、開けられなくて。だから店長が出てくれて……」

言いたい事は、一番大事な事は、それではない。分かっているのに、頭の中は空っぽで、まとまらない。
けれどゆっくりと、消化されていく言葉と、意味がある。

「僕はその、キースさんと同じ事を思っているんだと、思います。笑顔でいて欲しいです。笑顔が見たいです。そんな顔をしないで欲しいです」
「……」
「しないでください」
「……イワン君、それは」

ゆっくりと、消化が進む。
笑顔でいて欲しい。笑顔が見たい。それは誰の前でか。――勿論、自分の前で。

「僕の前で、笑顔でいてください。貴方が笑顔でいてくれたら、僕も笑えますから」

キースの左手が、イワンの頬に触れる。まるで火が点いた様に、そこが熱かった。

「……まるで、プロポーズの言葉みたいだね」
「えっ。僕は、その」

言ってしまった言葉を戻す事なんて出来はしない。そんな事は知っているのに、出来ないか方法を探っている。
わたわたと真っ赤になって慌てるイワンを、キースは目を細めて見つめた。

「私からも言わせて欲しい。――私の隣で、笑顔でいてくれないかな。君が笑顔でいてくれたら、私は何があっても笑顔でいられるよ」

にっこりと笑ったキースにつられて、イワンも笑う。

「――もう遅いね。送って行こうか」

そうじゃないと、帰したくなくなってしまうから。
耳元でそう言われ、元々赤くなっていた顔がさらに赤くなる。

「こ、これを食べ終わるまでは……、帰らない、です」

イワンが指を指す袋の中のドーナツホールズは、まだまだ沢山、色々な味を残している。

「ふふ、じゃあそうしようか。そうだ私は一つ、どうしても食べたい味があるんだが……貰っても構わないかい?」
「え?勿論良いですよ」

袋の中を覗き込み、イワンがキースが食べたいであろうドーナツをフォークに突き刺す。
それは何時ものと同じ、青いアイシングがかかったものだ。

「違う違う。それじゃあないんだ。もっと甘いのが欲しい気分でね」
「あれ、僕てっきりこれだと……。じゃあどれですか?」

それはね、というキースの声を、イワンはとても近い距離で聞いた。
プラスチックフォークが地面に落ちて、街灯が作った二人の影の境を示す。

「――ああ、やっぱりドーナツよりも甘い、幸せの味がしたよ」







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