Nightmare
ざわざわとした、嫌なものがずっとアシタバの胸に渦巻いていた。ちらり、とその原因に目を向ける。ハデスは何時もと変わらずに、もうお互い慣れ切った動作――来客者にお茶と茶菓子を与える――をこなし、そしてアシタバはそれを見つめる。何時もと同じ、筈だ。現にアシタバ以外の誰もが、それに何の違和感を持つ事もない、らしい。
(でも僕には大丈夫そうには、見えない)
気にしすぎる性質である事は自覚している。けれどアシタバの目に映るハデスは、とても無理をしている様に見えて仕方がなかった。内に巣食う病魔を抑える様に何かを殺し、そして笑って日常を守る。アシタバら生徒に何かを隠している事は別に今始まった事でもない。鈍や経一から聞くまで、ハデスの中に巣食う病魔とそれによって失ったものがある事を知らなかった。――また、派出須逸人という個人に関する情報の断片すらも。
ぶつぶつとまだ繋がりきらない情報の断片しかアシタバ達は与えられていない。恐らくハデス自身はそれ以上教える気はほぼ無いだろう。
トントン、とアシタバは指で膝を叩く。大した時間のかからない「茶を淹れる」という行動が、酷く長く感じられた。わざわざ藤や美作から離れ、放課後恒例であるグラウンドの見周りに行こうとしたハデスを捕まえてここにいる。
「おまたせ」
自分の前に置かれたカップを持つ。揺らめく水面に映るのは強張った自分の顔だった。それを少し見つめて、中身を飲む。温かいそれは、少しだけアシタバの心を軽くする。
「せん、せい」
潤った筈の口から出るのは、少し掠れた様な声。絞り出しているとでも言おうか。
ドクン、とアシタバの心臓が大きな音を立てて血液を送り出す。軽く唇を湿らせてから、続きを吐き出した。
「先生は、僕達を守ってくれます」
「その為に、僕はいるからね」
ハデスの顔は、普段と変わらない。けれど変わらないからこそ、どうしてもアシタバは違和感を感じる。
「でも、その……じゃあ、先生の事は、誰が守ってくれるんですか」
「……アシタバくん?」
「先生、凄く無理してる様に僕には見えます」
「……!そんなことは」
ない、とハデスは言い続ける。それは分かっていた。今はそれが辛くて仕方がない。
三途川や鈍、経一といった旧知の間柄である彼らの様になれないのは分かっている。それでも、ただ守られ、真実を知らないで過ごすのが嫌だった。
「僕、嫌です。先生が無理してるの、嫌です」
「……」
「まだ知らない事多いし、何が特別な事が出来る訳でもないけど、それでも……先生が一人で大変そうにしてるんだったら、何かしたいんです」
涙がこぼれそうになる。ずずっと鼻をすすり、なんとか堪えたアシタバを、ハデスは驚いた様な顔で見つめている。その表情に、アシタバは自分の発言が流石に出すぎた、大口を叩きすぎたものではなかったかと今更に思った。
「あ、あの、先生、ごめんなさい。なんか僕、ちょっと……。で、でも!」
「……」
ハデスはまだ、アシタバを見つめたまま言葉を発する事はない。
「先生が大変なら、何かしたい、役に立ちたい、ってのだけは事実なんです。えと、で、その……」
一度焦ってしまうと、もう思考も口も上手く回らない。言葉の代わりにするようにわたわたと手を動かすが、勿論代わりになる筈もなく。
「僕は、その……」
「アシタバ、くん」
硬い声色で、ハデスがアシタバを呼ぶ。アシタバを見つめている筈のその目は、どこかその向こうを見ているようでもある。
「君の気持ちは、とても――とても、嬉しいよ。でも、ごめんね。僕は、君の嫌だと思う気持ちを取り除いてあげる術が分からない」
アシタバが嫌だと訴えたのは、ハデスが無理をする事だ。それを取り除く事が出来ない、つまり無理をし続けなければならないという事実が、まるでハンマーの様にアシタバの頭に衝撃を与える。
「……」
「ごめんね。生徒を悲しませてしまうなんて、駄目な教師だと思う。それでも、こればっかりはどうしようもないんだ。――君を不快にさせる」
「え?」
しまった、という様にハデスが口を塞ぐ。ハデスが視線を逸らし、アシタバも気まずそうに自分の膝見つめる。二人の間にはただただ重い沈黙がどんよりと流れていく。
「……最近夢をね、見るんだ」
その沈黙を破ったのは、生み出した本人であるハデスの方だった。少し伏せられた目は、それでもアシタバから視線を逸らしはしなかった。アシタバもまた、ハデスから視線を逸らす事なく続く言葉を待った。
ハデスの様子と夢という言葉からするに、きっと悪夢を連夜見ているのだろうとアシタバは思った。しかし、アシタバの想像する悪夢とは『怖い夢』であるが故に、不快という事にはいまいちピンとこない。疑問に思いつつ、ただハデスの言葉を待った。
「――郁」
「……えっ」
硬い表情のまま、ハデスはアシタバの名を呼んだ。
「……そう夢の僕は、君を呼ぶ」
そう言って硬かった表情を歪ませたハデスは、泣いている様にアシタバの目に映った。
「そんな、普通じゃないけど……普通に近い夢を毎日見るんだ。どっちがどっちか……僕は見分ける事に必死になってる。だから、きっとアシタバくんの目には無理をしているように映ったのかもしれないね……。ああ、勿論病魔とかそういう事じゃないんだよ。ただ僕個人の問題だ」
「……」
「ごめんね。アシタバくんに心配をかけて。本当にごめんね」
また謝られ、それ以上どうしたら良いのかもうアシタバには分からなくなった。きっと何を訴えても、心配しても出来る事はないのだという予感がひしひしと伝わってくる。
(生徒じゃなかったら、良かったのかな)
生徒だから、子供だから、年下だから。
この優しくて優しすぎる養護教諭に心を許してもらうには、それでは駄目なのだと宣言された様な心地だった。実際はそう単純なことではないと分かっているのだが――アシタバにはそう感じられた。社会の常識と認識と倫理ときっともっと沢山の何かが、壊す事の出来ない薄く丈夫な壁を二人の間にはある。手を伸ばして確かめることすら拒まれる様なそれを壊す手段は見当たらない。寧ろ探せば探す程壁が分厚く高くなっていくような予感すらした。
「……」
少しだけ温くなった茶をすする。どんよりと重くなった気持ちで飲むそれは、何時もの様な匂いや味の何もかもが感じられない。ただの温い湯と同じだ。早く飲み干してこの場を後にするべきなのだろうが、なんとなく踏ん切りがつかない。勿論、ここにこれ以上居座ってもどうしようもない事は分かっているのだが。ただ暗く重い、手持ちぶさたな沈黙だけがまた流れていく。
沈黙のお陰か、保健室の外、廊下を誰かが歩く音だけが響く。三途川先生だったら良いのに、とアシタバは思った。ハデスの恩師であり、彼の事を自分よりもずっと分かっている彼女ならば、きっと力になってくれる筈だ。
だが、そんなアシタバの思いも空しく、足音は保健室の前を通り過ぎ、また遠く小さくなっていってしまう。そんな都合の良い事なんて起こる訳ないか、とアシタバが思ったその時、
「逸人くん」
窓の向こうから、ちょこんと三途川が顔を出した。
突然の事に目を見開くアシタバに気が付くと、三途川は目を細めた。
「おや、アシタバくん。今日は君だけか」
「は、はぁ……」
「三途川先生、どうかしましたか」
ハデスが近寄ると、三途川は少し眉を顰めた。彼女にもハデスの不調が分かったのだろうか。そうであったら良いとアシタバは思った。自分では駄目でも、きっと彼女ならハデスの相談に乗り、解決へ導く事が出来る筈だからだ。
「……ちょっとね。立ち話も何だし、私もそちらにお邪魔しようかな。少し待っていてくれ。……アシタバくんもそのまま残っていてくれないか?」
「え、あ、はい」
自分も残る様にと告げた三途川の意図は分からないが、彼女が意味もなくそう言う筈もないだろう事をアシタバは知っていた。外見からは想像もつかない程破天荒な内面をもつ三途川であるが、その性根は教育者に相応しい優しさを宿している。
そういえば、とアシタバは思い出す。初めて三途川と出会ったあの日、ハデスをよろしくと自分は言われていた。だからどうだ、という訳ではないのだが、ふいに思い出したそれが少し、気になった。
「待たせたね」
がらり、と音を立てて戸を開け、三途川が保健室へと踏み入る。真っ直ぐソファへ向かうと、ぽふんと音がする様な座り方をした。見た目とはなんら違和感がない、可愛らしい座り方であるが、彼女の不明な実年齢を思うと、幼すぎる様な気もする。
「ああ、逸人くん飲み物は別に良いんだ。それより座りなさい」
杖で指し示された、三途川とアシタバの向かいにハデスは腰を下ろす。三途川はそれをしばし無言で眺めると、くすりと笑った。
「逸人くん」
「……はい」
「君は物事を大袈裟に考えすぎるところがある。それと自分一人で何とかしようとするところもね」
「……」
「別に今更君のそういう所を否定しようって訳じゃない……。それだったら、とっくに矯正しているからね。君もいい大人だし、自己管理くらい出来ないといけない」
そうだろうアシタバくん。
そう言って三途川はアシタバにほほ笑む。アシタバはただ、曖昧に頷く事しか出来なかった。
「でも、アシタバくんに心配されるまで溜めこむのは良くないな」
「……すいません」
「私に謝る事じゃないだろう。まあ、謝るよりもその酷い顔を何とかするのが先決だ。……と言っても」
ビクリ、とハデスの肩が震える。それを見て、やはり三途川はハデスの隠している事を分かっているのだとアシタバは確信した。
「……難しそうだな、その様子だと。こればかりは私からどうこう言ってやれることではないしな」
「……」
「だが、一つだけ言わせてもらうぞ」
三途川は、口調と見た目と中身が大変ちぐはぐな印象を受ける。けれどこうしていると、そういう印象を払拭する様な、何とも言えないが大人――と言っても彼女はもうとっくの昔から大人なのだが――である事をまざまざと思い知らされる。
「君は、早く目を覚ますべきだ。君が、派出須逸人という人間がしたい事をする為に目を覚ませ。待っている人が、いるのだから」
勢いをつけて杖を突きだし、そう言った。突きつけられた側のハデスは、何とも言えない顔で三途川を見つめている。
「三途川先生……」
「そうだ、勘違いしてくれるなよ。これは『三途川千歳』一個人としての言葉だ。君の師でも、常伏の校長としてでもない」
いいな、そこを絶対間違えるな。
そう付け加えると、突きつけていた杖を下ろし、アシタバへと向き直る。
「さて、行こうかアシタバくん」
「えっ……」
「なに、逸人くんはもうほおっておけば良い。もう少しの間はこのままかもしれないが……まあ、大丈夫だ」
ちらりとハデスに目をやると、肯定する様に緩く頷いた。
それを頭から信用するには少しだけ不安があったが、アシタバは三途川と共に立ち上がった。三途川が言うのなら、その根拠が分からなくとも信用する理由にはなる。それだけの説得力が三途川にはあった。
「ええと、じゃあ先生、さようなら」
「うん、さようならアシタバくん……。気をつけてね」
力なく振られた手に見送られ、保健室を三途川と共に後にする。扉を閉める前に見たハデスの顔は、ほんの少しだけ普段に近くなっていた。
「アシタバくん」
声に向き直る。何時見てもこの人は不思議だとアシタバは思った。
「は、はいっ」
「逸人くんを、これからもよろしくね」
三途川はまた、そう言って笑った。
カツカツとヒールの音を立てて去っていく小さな姿を見送りながら、口の中で言われた言葉を反芻する。
よく分からないが、最初の時とは意味が違うのだろうという事だけはなんとなく理解した。
「……」
後ろ髪を引かれる気がしたが、振り返らず昇降口へと歩みを進める。
ハデスの言葉と三途川の言葉の意味をぐるぐると考えながら、アシタバは溜息を吐く。
多分今日はずっとこれを考えて、よく眠れないに違いない。
(先生は今日、ぐっすり寝れるかな)
いい夢も悪い夢もどれも見ないくらい、ハデスが自分の代わりに安眠できれば良いと、アシタバは思った。