Wake up
『君は、早く目を覚ますべきだ。君が、派出須逸人という人間がしたい事をする為に目を覚ませ。待っている人が、いるのだから』凛と響いた恩師の言葉を、何度も何度も脳内で繰り返す。じわりじわりと体に染み込んでいく言葉の指す人物を、ハデスはまだ決めかねていた。
恩師だということにしてしまいたい。しかし、それは正解ではない。赤いインクで三角印が辛うじて貰えるかどうかという、お粗末な答えだ。
「待っている人……か」
記憶に新しい、痛々しい顔が浮かぶ。あんな顔をさせるつもりは、毛頭なかった。
けれど、あの場でどうすべきだったのかハデスには分からない。真実を話しても、同じような顔をされただろう。いや、もっと酷い事になっていたかもしれない。
自分は男で、教育者。そして彼は男で、生徒。どこからどう見ても禁忌の香りしかしない肩書を持った自分たちに、夢を見てどうするのかと。
考えても答えは出ない。ハデスが考え付くどの最終回答も、三途川が言う様な『目を覚ます』に該当しそうにはない。
(まだ、逃げ道を探しているんだな僕は……)
現実を盾にして、真実を閉じ込める事にばかり躍起になっている。大人なんてそんなものだ、なんて一般論は言い訳にもならない。
ぐるぐると回るだけの思考と、ゆっくりと下降し続ける気分に耐えきれず、ハデスはその身を布団へと預けた。
『逸人』
そのまま目を瞑ると、暗闇の中で声が聞こえる。
もはや自分の一部として受け入れた異物が、ここぞとばかりに甘く魅力的な声でハデスを呼ぶ。
『逸人、喰ってやろうか』
「……」
何を、とは聞かない。ハデスの中に巣食う病魔、冷血はハデスの全てを知っていた。
今までに喰われて失ってしまった感情も全て知っている冷血は、もしかしたらハデスの事をハデス以上に知っているのかもしれない。
『否定しないのか?じゃあ喰ってしまおうか』
「……五月蝿い」
不快な笑い声が脳内を支配する。恐らく、本当に食べてしまう気は無いのだろう。喰らうと脅して、そこからまた感情を引き出そうとしているのだ、きっと。
そういえば最近食事をさせていないな、とハデスは思った。
『食事はしているさ。こんなお前の感情を喰うのは初めてだったよ』
「食べたのかっ」
自分で思っていたよりも必死な声が喉から出た事に、ハデスは驚いた。
それにハデスが息を飲むとほぼ同時に、またしても不快な笑い声が脳内に響き渡る。
『食べたさ。欠片も残さず喰った。……だが、おかしいな?』
どうしてまだ、俺の中ではなくお前の元にこの感情があるのだろうな?
そう言って『く、く、く』と冷血が笑う。
「だま……!」
この声の支配する闇から抜け出そうとハデスは瞼をこじ開けた。
――しかし、そこに広がるのはやはり闇で、その真っ黒い空間から病的に白い二本の腕が飛び出してくる。
『最近ろくに寝れてないお前が布団に入れば、すぐ夢のなかさ。気がつかなかったのか?』
まあ自分が寝たと気がつく人間も少ないか。
そう笑いながら、闇から白い腕の先が姿を現す。――ハデスの形を借りた、冷血が。
冷血は伸ばした両腕を遊ばせながら、ハデスを見つめる。同じ形をしながらも、見つめる瞳だけは違って酷く濁っている様にハデスには感じられた。
(いや……)
違う、とハデスは首を振る。酷く濁った目をしているのは冷血ではなくきっと自分自身なのだ。寝不足と、焦りと、迷いと、劣情が混じりに混じった、酷い色を滲ませているのだろう。
『逸人。俺は優しいから、新たに生まれる度に喰ってやったよ。少しは楽だっただろう?それでもお前のお節介の様に、いくらでも湧き出てきたがな……。お前がどう思うかは俺の知った事ではないが、俺としては食うのに困らなくて大歓迎だ。味は大して良くないが』
「……」
非難するべきか、感謝すべきなのか。ハデスには判断がつかなかった。
自分でもよく分からない口から飛び出しかけた言葉を飲み込んで、唇を噛む。
『さて、どうしような逸人』
「……?」
かくり、と冷血が首をひねる。
『今日も喰ってやろうか』
「僕がどう言おうとお前は聞かないだろう」
『いや?そうでもないさ』
病魔はその囁きで誘惑する。
そんな事はもうとっくに知っているというのに。
「冷血……」
『逸人、喰ってやろうか。お前が気付くよりも早く、何度も何度でも喰ってやろうか。そうして繰り返して、お前がアレに何も感じなくなるまで』
「もし……止めてくれ、と言ったら」
震えた様なハデスの声に、く、く、く、と冷血が笑う。
『止めてやるさ』
濁った目がハデスを見つめる。
そこにあるのは底の見えない渾沌。人ではない色がある。
『そして、最後に喰らってやる。後悔と絶望の甘い味か、陳腐な幸せの苦い味を喰らってやるさ』
瞬きをした。そして、目を見開いた。そして――ハデスは、笑った。
自分の周りは、こんなにも優しい。
「冷血」
きっと今この目の前の自分自身の形をした病魔に思った事は、すぐに喰われて消えていくのだろう。不味いと言いつつ、跡形もなく喰われて消えるのだ。
けれども、残るものがある。病魔にも喰らい尽くせない感情、それを形にする為には――そうだ、起きなければ。
『逸人』
同時に、宙を見上げる。
闇が綻んでいるのが見えた。
「朝が来る』
そう呟いたのは一体どちらだろう。
ぱちり、と目を開けて、派出須逸人はやっと――長い夢から、目を覚ました。