白黒的絡繰機譚

In a dream

やけに身体が軽く、自由なのに束縛されているかのような不思議な感覚で、ハデスは閉じていた目を開けた。
開けるとそこは見慣れた己の城、薬品の匂いが染みついた保健室であったが、どうにも違和感がある。ソファから立ち上がらぬままぐるりと周りを見渡してみても、その原因は分からない。分かったのは窓の外が暗く、時計の針が指し示す時間が9時を回っていた事くらいだった。

「せんせい」

ふいに聞こえた声の方向に目を向ける。そこはハデスの膝であった。所謂膝枕、という体勢でハデスを呼んだのは、保健室の本来の用途ではない意味での常連の一人、アシタバだった。

「……アシタバくん?」
「せんせい、今何時ですか……?」
「あ、ああ、9時過ぎだよ。……そうだ、アシタバくんのお家に連絡しないと。きっと心配してるよ」
「連絡? どうしてですか?」

アシタバはハデスの膝から頭をあげると、キョトンとした顔でそう言った。以前彼の長所が奪われた時に似たその表情は、ざわりと嫌な感触をハデスの心に残す。

「だってアシタバくん……」
「先生。――逸人さん」

聞いた事ない、呼ばれた事のない名前に、ビクリと肩が震える。どう反応をすべきなのかが分からない。しかし、そんなハデスの困惑なぞ知らぬというように、ハデスの身体は勝手に「派出須逸人」として動いていた。
アシタバの頬に触れ、撫でる。それをアシタバはとても気持ち良さそうに受け入れている。

「郁」

己の口が一度発した事のない名前でアシタバを呼んだ時――ここでやっと、ハデスはこれが夢なのだという事に気が付いた。
気が付いた瞬間、弾き飛ばされるようにハデスの意識は身体と分離し宙に浮き、己とアシタバを見つめる形になった。

「ごめんね、別に約束を忘れた訳じゃないんだよ」
「そう、ですか。良かった」

ハデスなぞお構いなしといった風に、ハデスの身体とアシタバは空いていた隙間を埋め、寄り添い合う。その姿はハデスの中にちらついていたあまり信じたくない予想を確信へと押し上げる。

「僕とアシタバくんが? 酷い夢だ」

ぽつりと声が漏れる。当たり前のようにそれは目の前の二人には聞こえていないようだった。随分と幸せそうな表情を浮かべる二人を、ハデスは少しだけ羨ましく感じた。
二人は立ち上がり、扉へと向かう。

「――帰ろうね。明日は早く起きて、買い物に行こうね」
「はい。じゃあ逸人さん、……今日は早く寝ましょうね?」

少し頬を赤くして発せられたその言葉に、ハデスの背筋が冷える。これは夢だということは分かっている。それでも夢の中の自分がしでかしたこと――14歳の少年を相手に性交渉を行った――に対する絶望と困惑が渦巻いて消えない。夢の暗示する意味に詳しくなどないが、どんな事を暗示していようともこれは悪趣味すぎる。ハデスには、己の身体に巣食う病魔がこの感情を早く喰らい尽くしてくれないかと願う事しか出来ない。

「それは郁次第かな」

ふふ、と自分がほほ笑む。それを見てアシタバが更に頬を赤くする。どくん、と心臓が跳ねた様な心地がした。絶望と困惑と他にもまだ沢山の感情が渦を巻く。冷血はそれらをまだ喰らい尽くせていない。視界の端に映る髪の毛が色を持っていく。
これは只の夢だという事は分かっている。けれど、慣れた薬品の匂い、膝に載っていた温かい感触、触れた頬の温度そのどれもが鮮明すぎて恐ろしかった。夢だと分かっているのに錯覚してしまいそうな程のそれに怯えているにもかかわらず、二人から目を離す事が出来ない。耳を塞いでしまいたいのにそれが出来ない。
少しずつ忘れかけた健常に戻っていく己の横を、幸せそうな二人が通る。そしてすれ違いざまに聞き慣れた声がした。

「僕は郁を愛してる。そして郁も――僕を愛してる」

僕。この場合の僕は一体誰を指すのだろう。夢の住人である派出須逸人なのか、それとも現実に生きる派出須逸人なのか。ハデスには分からない。ただただ、二人が出て行った扉を見つめる。まだ遠くに足音が響いていた。

「これは夢だ」

そう、これは只の夢だ。病魔の気配の欠片すら感じない、眠ればやって来る夢の世界だった。そしてそれは目覚めれば終わる。けれどハデスは目覚める事が出来ない。現実への帰り方を忘れてしまったかのようだった。
目覚めれば何時もと変わらない日常が待っている筈だというのに。目覚めれば、休日だ。――早く起きたらゆっくり買い物に行けるような、休日だ。

「違う。これは夢だ。だから、僕は――」

そんな訳は無いと分かっている筈なのに、目覚めたら腕の中にアシタバが存在している様な気がしてならなかった。

「僕は――……」

揺るぎ無い筈のものが、揺らぐ。
どの世界の派出須逸人も、明日葉郁を愛しているのかもしれない、とハデスは思った。
ならばこれは予知夢なのだろうか。そう思ってやっと、ハデスは自分が現実に戻る気配を感じた。







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