星を呑んだ 弐
海王星波+木星旋回+水晶
男は、海と共に生きてきた。
生まれからして海だった。お前は浮かぶ小舟に捨てられていた赤子なのだと教えられてきた。
育てられはしたが、それ以上にはなれなかった。小さな漁村で、男だけが異物であった。いっそ村を出て行きたい、そう思ったことはある。
けれども、そんなことを一度も望みはしていなかった。
「はっ……! なんで、まだ……!」
人の通らぬ野を、男は駆けていた。
脚は草木による切り傷に覆われ、一体どれだけ駆けているのか、足の裏からは血が滲んでいる。
時折後ろを振り返っては、進路を変えていく。
「あっ」
脚がもつれ、男の身体が地に叩きつけられる。起き上がろうともがくが、もはや身体は限界に近く、指すら満足に曲がらない。
「いやだ、くる、あれ、が……っ」
男の意識は、そこで途切れた。
星を呑んだ。
その時、ただ死を待つだけであったものは新たな生を得た。
会いに行こう。きっと還ってきているから。もう少し、この身体が動くようになるまで眠ったら。
「なんで俺が」
「貴方がたの土地でしょう?」
人の声が聞こえて、男は目を覚ました。
首を動かすと焦点の定まらぬ視界に、ぼんやりと人らしきものが3つ見える。
「ならコイツだけにやらせろ。俺には関係ない」
「関係しかないでしょうに。今やこの鳥は貴方の呼びかけなしに力を使えないんですよ……ふふっ」
『笑うな元凶め』
ぞわり、と全身が総毛立つ。
この、何処か知らぬ所から響いてくるような声は、あれと同じだった。
逃げなければ。男は起き上がろうとする。
「押さえろ、
風が吹いた。
そう思ったときには、男の身体は折れそうな程の力で押さえつけられていた。
「いっ……?!」
「あー、折れるぞそれは。もう少し緩めていい」
『……』
ばさり、と何かが男の顔に触れた。
見上げると、己を押さえつけるものの背に生えている羽根だと分かった。
つまり、人間ではない。やはり逃げ切れなかったのだと、男は悲鳴を上げた。
『五月蝿いぞ』
ばけものが口を塞ぎにかかる。呼吸さえ出来ないそれに抵抗しようとするが、腕を押さえ込まれているためそれも敵わない。
「馬鹿、殺す気か」
『……お前が言ったことをやってやってるだけだ』
「もういい、ちょっと離れとけ。……悪いな、鳥頭だから難しいことは出来ないんだ」
やっと拘束から解き放たれた男を、指示した方が覗き込む。痩せた、自身より少し年上程度の只の人間のように見えた。
「ほら、水。飲めるか?」
「……」
起き上がって差し出された湯呑を受け取る。こちらに向かってくる姿では、両手は空だった筈だが、一体何処から出てきたものだろう。
「喋れるか?」
「……う、はい」
『早く叩き出せ。一昼夜しない内に来るぞ』
「!」
男が身を固くする。ああ、やはり逃げ切れてなぞいないのだ。
「黙っとけ。あと室内で力使うな。……ったく、ちっとも安定しないじゃないか」
「もう幾晩かすれば安定しますよ。つまりは、今すぐには無理ということですけど。……ああ、こちらの話です。海から来た方、ご安心を。この二人が助けてくれますからね」
長い髪に白装束の女――実際は男である――がそう微笑んだ。男の知る世界は閉じた、狭いものであるが、それでも言い切れるほどに美しい見目であった。だが、何故か落ち着かない。感心している場合ではないからだろうか。
「助け……俺を?」
水で湿った舌で聞き返す。信じられない、といった顔の男に、3人は揃って呆れを隠さない。
「いや、なんか知らんが逃げてきたんだろ。コイツ……
「……見えたのか、あれが。化け物が……」
ずるりずるりと、まるで海が這い出してきたような黒い影。見上げるほどの巨体を引きずって、後には何も残らない。黒い巨体に光る赤い光が、真っ直ぐに何かを追い続けている。そう、この怯える若い男を。
「そりゃまあ、でかいしここはお前のいただろう所より高いからな」
「……。アンタ、なんでそんな平然としているんだ」
3人の中で一番自分に近い、つまりは凡庸に見える者が随分と平然としている奇妙さを男は問う。答えの前に男に返ってきたのは晶と呼ばれた巫女のくすくすとした笑い声であった。
「この人、
「お前」
「そうでしょう? 貴方、こういう事が楽しいんですから」
男は言葉を失う。これの、一体何処が楽しいというのだと憤慨することすら出来ない。旋葎と呼ばれた方が否定をしないままでいるのも大概だ。
「俺がどうだろうと別にいいだろう。……全く、お前、晶の話は聞き流せ。それより、どうしてあのでかいのがお前を追っかけてるんだ」
「……よく、分からない」
「はあ?」
「分からない。漁から帰ったらなんにも無かったんだ」
何も変哲のない、程々の魚が捕れただけの日で終わる筈だった。帰路について直ぐ、違和感はあった。見える筈のものが見えない。まさか知らぬ間に流されでもしたのかと思ったが、海岸の形はそれを否定していた。混乱のままに帰り着いた男の前には何も無かった。船も家もなく、勿論人もいない、只の海辺だけが其処にはあった。
呆然と立ち尽くすしか無い男に巨大な影が現れて言った。
『おかえりなさい。……貴方がちゃんと残っていて良かった』
そこから先の事を、男はあまり覚えていない。影が何か自分に囁いていたような気もするし、そうではなかった気もする。覚えているのは、休み無しでがむしゃらに走るだけの恐怖のみだ。兎に角捕まってはいけないのだという確信だけがあった。振り返る度に見える巨大な影が、何も嘘ではないのだと突きつけてくる。只々、恐ろしい。今も、その姿や声を思い出すだけ寒気がする。
跡切れ跡切れに説明をしているうちに伏せていた頭を上げると、三者三様の顔で男を見つめていた。
巫女は相変わらず微笑を、旋葎は何処か楽しげに見える余裕を、楓星はやはり不機嫌なようである。だが、楓星のそれは先程とは少し違うように男は思った。理由は全く分からないが、ほんの少しばかり敵意が減ったように感じられる。
「どうした?」
気がついたのは男だけではなく、旋葎もであった。自身の後方に移動した楓星を見やる。
『……本当に碌でもないのを拾ったと思っただけだ』
「お前な。だが、ちょっとやるつもりになったんだろう」
『……』
楓星は黙ったが、それがどのような意味の沈黙なのかは一目瞭然であった。
男はやはり困惑するしかない。この二人の力関係が分からない。一体この二人は何なのだろうか?
「それで、どうする?」
旋葎が男に問う。
「どう……」
「晶が勝手に助けるとか言ったけどな、お前自身はどうして欲しいのかと思ってな」
「……」
目を閉じる。浮かぶのは、只管に恐怖だけだ。
何か理由があって、あの影は男のみを残したのかもしれない。けれど、そんな事は男にとって知らぬ事だ。ただこの恐怖から逃げたい、救われたいという気持ちで心が満ちている。
「助けて、欲しい」
震える声で、けれどしっかり3人を見て男が言う。
「任せとけ」
旋葎が笑う。何故かそれは、男の心を少しだけ軽くするような、そんな表情であった。
後少し、もうすぐまた動ける筈。そう思って海月のように夢を揺蕩う中で、一滴、海水ではないものを感じた。
ああ、やはり会いに行かなくては。彼だけが、この世で彼だけが、この身を想ってくれるのだから。
同じものを、貴方に。私だけが貴方を。あの日から私は、世に只一つの魂だけを想っている。
なんの変哲もない、山の麓であった。強いて特徴を上げるとすれば、一本の木の根本に少し大きな石が置いてあるくらいであろうか。
「ここで迎え撃つんだと」
まるで他人事のように旋葎が言った。実際、狙われているのは男の身で、迎え撃つのは楓星である。自ら戦力外だと言ってついて来なかった晶もいるが、彼は影の到達の刻限を見積もるという仕事をこなしている。それに比べて旋葎は本当に、其処にいるだけである。勿論、男は楓星と二人きりにされるのは御免なので、いるといないでは天地の差が有りはするが。
「境界のギリギリだからな。お前、絶対に俺の前に出るなよ。助けてやれないぞ」
「境界?」
「コイツの領地の境界だ」
旋葎が指すのは、勿論楓星である。昨日のように背から羽根を広げた楓星は、宙に浮かんでいる。いや、宙に座っていた。羽根を動かしもせず、足を組んで遠くを見つめている様は奇妙だが、つい見てしまう何かがある。
「あのどでかい影が凄かろうと、とりあえずコイツの境界でそこまで好き勝手は出来ない。人間もそうだが、ばけものにとっても領地ってのは重要らしいぞ?」
「で、でも、じゃあ、どうして、あれ、止まらないんだ……?」
影は一切歩みを止めない。決して速くはないが、確実に男へと近づいている。
「そりゃお前、コイツをぶっ殺してでも持ってく気なんだろ」
お前をさ、と旋葎はまた他人事のように言う。男の喉が絞められたような音を出しても眉一つ動かさない。その間にも、影は近づいている。ずるりずるりと、重く湿った音が耳に届く。
『――やっと、見つけた』
そう、嬉しそうな響きで影が言った。境界より少し手前で止まっているが、その身を乗り出せば男の鼻先まで届きそうな程近い。
男の身が冷えていく。本当に此処まで来たことも、声色も、全てが不明で恐ろしい。思わず旋葎の腕を掴む。
『さあ、帰りましょう。私達の海へ』
旋葎には、背に隠れる男がどうしてこんなに怯えるのか、理解ができなかった。ばけものとは思えぬほど、優しい声色だ。
最も、己がやや人の道を外れてしまったことも一応は承知している。ただの人からすれば、ばけものの声色なぞどれも一緒なのかもしれない。楓星の方を見やる。あちらも旋葎を見た。
『お前、何時の間にそんな臭うようになった?』
瞬間、久方ぶりに元の形になった楓星が、暗い影に向かって吐き捨てた。
風には聡くなった旋葎だが、言われるような臭いは少しもしない。
『この人間一人の為にどれだけ流した? どれだけ沈めた? ……まあ、俺の知ったことじゃないが』
『なら、返してください。彼は私のものだ』
ずい、と影が身を乗り出す。
己が土地――海から随分離れたとはいえ、まだ一山ほどの大きさがあった。つまりはそれだけ、強大なばけものだということだ。
『そうしたいのは山々だが――』
ちら、と楓星の赤い目が旋葎を見る。首を振って返した。
『悪いな、うちのが駄目だとよ』
先に動いたのは楓星だった。
一直線に影へ向かって飛ぶ。その勢いで男は思わず尻餅をついたが、旋葎の方はよろけることもなく立っている。男を背に隠していたというのに、だ。
それに疑問を抱くより速く、楓星の爪は影を切り裂く。しかし、切り落としたと思われた頭部は、すぐに元の形に戻った。
『……チッ』
『爪じゃあ、私は切れませんよ』
お返しだとばかりに、影が身体を震わせて人間の頭ほどの水の塊を投げつける。楓星はそれを翼一振りで吹き飛ばした。水は脇の木に当たり、幹は見る間に溶け折れる。
『そんな鈍い弾が当たるか』
『貴方にはそうでしょうね』
先程の数倍の水が、影から分離する。
『私は彼だけ残ればそれで良いんです』
『!』
水の塊が投げつけられた方向に楓星が飛ぶ。着地点――旋葎と男の前に立ち塞がった楓星はまた吹き飛ばそうと翼を振ったが、数が多く全ては叶わなかった。直撃は免れたものの、飛沫を浴びた翼が焼ける。
『その調子では、次は骨が溶けますよ?』
呆れるような、心配するような、どちらにせよ楓星の神経を逆なでするような声であった。
「な、なあ……大丈夫なのか」
男が震えた声を出す。男の目からは、楓星が影に勝てる道筋が見えてこない。其処らの木のように、全てが溶かされるような気がしてならない。けれど、振り返った旋葎は男ににやりと笑う。
「大丈夫だろ、多分」
「多分って……!」
悲鳴のような男の声に、旋葎は笑みを深くするばかりだ。
「鳥頭だが馬鹿じゃないし、結構真面目だからな。それに、俺が見てるなら無様な姿は見せたくないだろうよ!」
その声が届いたのだろうか、楓星が水を散らすために吹かせていた風を止めた。
『諦めがつきました?』
『……』
応えず、地に降りる。鳥としては巨大な楓星だが、影と比べると二周り程違う。空を舞う楓星では通常取り得ない、低い位置から相手を見る形だ。見下ろす影の赤い光が細められる。余裕の笑みを浮かべているかのようだ。それに気圧されたかのように、楓星が姿勢を低くする。
それが見えた男が息を飲む音を旋葎が聞いた、瞬間だった。
「……。言ったとおり、だろ?」
「そうだ、けど……」
二人の目には、過程はなく結果しか映らなかった。倒れ伏す影と、それを見下ろす楓星。
何が起こったのかは分からないが、何方が勝者なのかは明らかだった。暫くして糸が切れたかのように着地した楓星の右羽根は、ごっそりと欠けている。
『はん、何が次は骨が溶ける、だ』
強くそう言い捨てるが、それの幾らかが虚勢であるのは傍目からも明らかであった。溶けたのは羽毛が大半であろうが、それでも何かが焼けた匂いが僅かに漂っている。
『まさ、か……貴方が、……』
ごぼごぼと音を立てながら影が声を絞り出す。
『まるで、それでは……嗚呼、なら、私が……勝てる筈も、ない……』
『寝言はそれだけか?』
楓星の身体が光を帯びる。
『本当に、だから……神は……嫌なんです……』
身の内から雷を発するなど、まるで神だと影が掠れた声で笑う。その言葉を楓星はどう取ったのか、男には分からない。見上げた旋葎の横顔からも、やはり分からない。
「……おい」
旋葎が声を上げる。
『止める気か?』
「俺じゃお前を止められないよ。……でも、どうするにしろ、理由くらい聞いたって良いだろう?」
なあ、と旋葎が振り向いて男に同意を求める。
そうだ、結局何も分からないままだ。何故、追ってきたのか、流したのか。影がその生命を失ったところで、全ては闇の中になるだけだ。
そろり、と男は立ち上がる。
「どうして、なんで、あんな……」
『……だって貴方が、貴方だけが、私に』
地に伏せた影が、声の強さと感情に耐えきれないように溶けていく。
表面を覆っていた海水らしきものが剥がれて現れていくのは、所々腐った肉だ。
『前世も、現世も、貴方だけが、私の苦しみを、理解してくれたでしょう』
「な……っ」
『前世の貴方は、私の孤独を理解してくれた。現世の貴方は、私の朽ちた身体に、涙をくれた……』
海水が全て剥がれ落ちた。巨大な身体の大部分は腐り、骨が露出している。
男は思い出す。これを、見たことがある。海の底に横たわるこれを、確かに見た。永く生きたであろう、鯨の死体。
腐肉を食べるものすらいない、薄暗い海の底で、ただ朽ちていくだけの死体だと思った。何故か見ているだけで悲しくなって、近寄って、そっと触れた。
それだけだった。たったそれだけしか、男はしていない。前世のことは、勿論知る由もない。
「お前……それだけ、で、俺の村も、周りも、全部」
男が旋葎の後ろから、ゆっくりと鯨へと向かって歩き出す。
『……あの村は、貴方にとって良くなかったでしょう』
「……」
男に反論は出来なかった。育ててはもらった。だが、それだけだった。
男を拾ってから、不漁に見舞われる事は無くなったと誰かが言っていた。だが、他の村では穫れる魚が減ったとも囁かれていた。それを男に直接言う者も、感謝する者も、詰る者も誰も現れなかった。つまりは都合のいい異物でしかなかった。それでも、飲み込めなくても生きていくしかないと思っていた。
『渡される稼ぎ、どれだけ抜かれてるか知ってました?』
「知ってたよ。みんな、俺が一番貧乏でいて欲しかったみたい……」
人の不幸は、閉じた世界では一種の娯楽だ。男の村では、それを異物である男で賄っていた。それだけの話だ。それだけの、理不尽な話だ。男本人すら諦めた境遇に、この鯨だけが異を唱えた事になる。
『貴方が捨てられた経緯もね……私は知っていました。前世の貴方も、そういう男女と家のことで、結局早く死んでしまった……』
一度目を覚ました時には、もう全てが終わっていた。前世の男は些細な幸せすら掴めずに死に、家族は墓に手を合わせもしない。
それでも、星を呑んだ鯨には、あまり遠くないうちに還ってくるのが分かっていた。だからまた目を閉じて待った。今度は必ず、救ってみせると誓って。
「だから、全部流した?」
『はい。別に……そう、許して欲しいとは思っていませんよ。……それでも、私は……』
貴方のために出来ることをした、と鯨は言う。
男が鯨の元へたどり着く。腐った肉に手を寄せた。あれほど怖かった筈のそれが、今はもう悲痛しか感じない。
「全部俺のためだったのなら」
男の目から、雫が落ちる。
「……ただ、隣に居てくれるだけで、良かったのに」
鯨は虚ろな目を閉じる。その身体は端からどろりと溶け、まるで水のように消えていく。
そうして最後には、最初のように何も無くなっていた。
「……死んだのか?」
『んな訳あるか。簡単に死ぬような奴じゃない。元の場所に戻っただけだ』
眺めていた旋葎の呟きに、間近で呆れた声が返事をする。そちらの方向を見ると、楓星がするりと人の形になった。あちらでの怪我もある程度反映されるのか、腕に火傷のようになっている箇所がいくつか見受けられる。特に羽根のごっそり欠けた右腕は、対応するように袖が無い。
「痛いか?」
『……』
じ、と楓星が旋葎を見つめる。その顔は感情が見えないが、赤い瞳は物言いたげに揺らいでいる。
まだ人の身体を持て余しているのか、楓星の顔や仕草はぎこちないところがある。けれど、最初から赤い瞳だけは雄弁であった。
「薬を塗ってやるよ。……うん、よくやったなお前。正直驚いた」
楓星が目を見開く。期待した癖に何様の反応だ、と旋葎は思うが口には出さない。思うだけなら出来るが、口に、声に出そうとすると、少しも形にならないのだ。少し飲み込むことに慣れすぎたな、という自覚はあった。言うだけ無駄、誰も聞いてくれやしない……そんな環境に居たのも随分と昔の事だ。だが、子供の頃に形成された価値観を変えるのは容易ではない。なので結局、出来るのは視線を合わせる事くらいだ。
『……。別に、あんな魚くらい余裕だ』
「お前なあ。ま、初めてにしては上手くいったんじゃないか」
『何のことだ』
「いや、その……お前からも、誰からも言われた訳じゃないが……そうか、俺が勝手に思ってただけか」
『だから、何のことだ』
苛立つ楓星に、旋葎は言う。
「他人のために身体張るなんて初めてだろ、お前」
否定してやろうと開いた楓星の口は、結局何も言い返せなかった。暫し呆然と旋葎を見つめる。
――俺がこんな、只の人間に? あの男のためでは決してなく、旋葎が言ったからやった結果しか此処には残っていない。それが何を意味するのか、楓星には分からない。
けれども心のうちに怒りや否定の言葉が湧いてこない事だけは、事実であった。
目を閉じると思い出す。鮮明に、幾らでも。
「なんだお前独りなのか。……寂しくないか?」
俺だったら寂しいなあ、実際寂しいからお前に話しかけてるんだけど、と笑った、その顔を。
他の同種のように群れを作ったのは、遥か昔過ぎてもう忘れてしまった。そもそも、もう同種とは似ても似つかぬものと成り果ててしまった。寄って来るのは、欲しくもないのに手に入れてしまったものを欲しがる身の程知らずばかり。
歌い方どころか声の出し方すら忘れかけていたのに、この時だけは喉を震わせた。
「なんて、答えてくれるわけもないか」
けれど、錆びついた喉は何も絞り出せず、結局間近で見たのはそれきりだった。
前の夢の中、今の彼の言葉を噛みしめる。
――ああ、本当にその通り。私は、貴方にそうして欲しかっただけ。
「――それでは、お気をつけて」
小声の晶の見送りを背に、男は歩き出す。
まだ日の出の遠い里を抜け、鯨が越えられなかった境界を踏み越える。
「結局帰るのか、お前」
「! なっ……!?」
そっと出ていこうとした男の背中に旋葎は声をかけた。男からすれば不意のことだっただろうが、この地でそれは無理な話である。
あの後からずっと何を考えていたかなぞ、問えば答えてくれる存在がいるのだから。
「……ば、馬鹿だと思ってるんだろう」
「少しはな。……だが、分からんこともないと、今なら思う」
男の言葉に、旋葎は後ろについて来ている楓星を見た。
男と己は見かけこそ殆ど変わらないが、もう晶以外に本来の年齢を知る者がいない程には生きている。
そうなる前に、ここから出る選択肢もあるにはあった。けれど結局、旋葎はそれを選ばなかった。
情か、正義感か、義務か、はたまたそれ以外か。以前も今も、明確な名前は与えられていない。只一つ分かるのは、それでも繋がっているという曖昧な確信だけだ。
「まあアレとお前の間に縁があるように、俺達ともあるんだろう。……偶にはまた、逃げてきたらいい。それくらいの気持ちの方が、楽に生きていけるだろうよ」
「……ああ、そうする」
男が背を向けて歩いていく。
進む先には海と、あの鯨がいるのだろう。