白黒的絡繰機譚

告白

次男が女性に化けている描写有り。また、執筆時は2巻発表前でした。

我らが兄、下鴨矢一郎はその真面目さ故に浮いた話が今まで一つもない狸である。下鴨家の頭領として嫁取りを考えねばならぬ歳だと言うのに、全く嘆かわしい事である。
だがある日、そんな長兄が若い女子と連れだって歩いていたという噂が洛中を走った。やれどこそこの娘に似ていただの、いいやあれは人間の娘だっただの、噂が噂を読んで尾鰭がついてもうどうにもしようがない有様であった。そんな噂を立てられた長兄であるが、何故か酷く冷静であったので、我々兄弟と母は驚いた。どう考えても怒り狂うとばかり思っていたからである。だが、誰が聞いても長兄はその噂が真であるのか否かは答えなかった。

とある曇りの夜であった。私は朱硝子にて程よく酔い、ふらりふらりとした足取りで糺の森へと向かっていた。偽電気ブランのお陰でほんわかとした視界の中、私は鴨川のほとりに座る長兄の姿を見つけた。

「矢三郎か」

私が通り過ぎるよりも早く、長兄が振り返って私の姿を見つけたので、私はふらりふらりと長兄に近寄り、その隣に腰を下ろした。

「兄貴、こんなところで何をしてるんだ」
「……待ち合わせだ」

誰と、と聞こうとして私は口を噤んだ。長兄はそんな私を見て薄く笑った。

「おまえに会わせようと思ったのだが、やはり嫌なようだ」
「俺に?」
「お前だけには言ってもいいと思ったのでな」

何を、とは私は聞かなかった。あの噂だ。しかし、私に会いたくない、という言葉が引っかかった。

「言っておくが、海星ではないぞ」
「……ま、あいつは兄貴の事、器が足らんとしか言ってなかったしな」

私がそう言うと、長兄は眉を顰めた。それがおかしくて私は笑い、そしてすぐに笑いを止めて長兄を見た。長兄はただ私を優しく見つめていた。

「一体どこのお嬢さんだい、兄貴」
「お前も知ってる」

私は首を捻った。酔いの回る頭で、思い出せる限りの雌狸の姿を浮かべてみたが、どれもこれも違うように思われた。長兄は私を困らせて面白いのか、ふ、と笑った。

「矢三郎よ」
「何だい、兄貴」
「俺は今から色々と勝手に喋ろうと思うのだが、出来ればそれは公言しないで欲しい。何か思うところがあっても、出来れば胸に仕舞っていて欲しい」

私は返事をせず、ただすぐ横にある長兄の目を見つめていた。曇り空の下でもなんとなしにきらきらと輝いていたように感じられた。

「俺が奴と出会ったのは、随分と昔になる。お前が生まれるよりも前だ。初めて出会った時、俺は随分と感動した事を覚えている。その時俺も奴も小さな毛玉であったから、ただただ毎日毛玉らしく過ごしていた。それからお前が生まれて、赤ん坊じゃなくなるまでは、随分と仲が良かったように思う。いや、あの頃が一番、仲が良かったのだろう。その頃の俺はもう、先生の元へ通っていたし、元々奴とは性格が正反対のようなものだ。あの頃出来た距離は当然とも言えるだろう。だが俺も奴も、それが距離であるとは気が付いていなかった。それから矢四郎が生まれ、父上が鍋にされてしまった頃には、俺と奴の間に出来た距離は、もうどうにもならないようなものであったと思う。奴は俺やお前といった自分の周りにいた者を全て捨ててしまったし、俺はそんな奴を一番遠くで見ていた気がする。実際、そうだったのだろう。だが、ふと奴がずっと懸想をしていた相手がいると聞いた時、俺は酷くそれに狼狽する自分がいる事を知った。実際は聞いてすぐはそれどころではなかったが、時間が経つとそんな自分がいる事に気が付いた。お前も知る通り、俺は色恋沙汰に縁なく生きてきた狸だ。どうしたら良いのかも分からず、あの忘年会の日以降距離がほぼ元に戻った筈の奴にそれをそっくりそのまま伝えてしまった。今思えば、阿呆極まりない事だ。だが、俺の阿呆の血は、黙っている事がどうも苦手だったようだ。長年思っていた事を、全て吐き出した。俺のその言葉を全部聞いた奴は、こっくり頷いて『分かった』と一言言ったのだ」

そこまで一気に話して、長兄は長い息を吐き、私を見た。どこか悲しむような、それでいて嬉しそうな、何とも言えない初めて見る長兄の表情であった。

「兄貴」
「何だ」
「……結婚はしないのかい」

長兄は首を振った。

「だが、離れない。お前も分かるだろう」
「ああ、分かるよ兄貴」

いつの間にか、酔いは醒めていた。だが、視界はまだ薄ぼんやりとしていて、立ち上がる気にはなれず、私はただただ目の前の鴨川を見ていた。
長兄は私を残して立ち上がり、さくさくと足音を立てて離れていく。いつの間にかその足音は二つ分になり、そして聞こえなくなった。
私は振り返らなかったが、一体誰が長兄と一緒に歩いて行ったのかだけは分かった。

今度曇りの夜は、偽電気ブランの瓶を持ってここを歩こうと私は思った。