白黒的絡繰機譚

辛みと苦味を混ぜた先

「兄さんは味を知らんのだ」

やや肌寒い夜、私の背に身体を預けた弟は、酒臭い声でそう言った。視界の端に移る偽電気ブランの瓶はもう中身が少なく、その横には空になったビールの空き缶が二、三個転がっている。弟がこんな風に私の前で酒を飲む事はまれだった。私自身は酒を飲まないし、こんな飲み方をしていれば私が説教をする事は、弟も知っている筈だからだ。それがなぜ今日に限ってなのか、私には思い当る理由はない。既に酔っぱらっている弟から、それが聞き出せるとも思わなかった。

「別に酒の味なぞ知らんでも生きていける」
「それは屁理屈だぜ。俺なんかより兄さんの方が酒の味を知っとかなきゃいかんだろう」

悔しいが、それは全くもって正しい言葉であった。
楽しくおかしく酒が飲めればいい、という弟たちとは違い、下鴨家頭領である私は、付き合いで酒宴の席に行かねばならぬことも多い。狸界にもノンアルコール飲料がじわじわと普及しつつはあるのだが、年長者の多い酒宴ではそもそも存在自体を知らぬ狸も多い。恐らくノンアルコール偽電気ブランが開発されない限り、これ以上普及率が上がる事はないだろう。なので私は何時も、最初の一口だけを舐め、後は緑茶やほうじ茶を啜っている。

「ならお前がやるか」
「面倒くさいから止めておくよ。……それにきっと、店の方から『千歳屋の二の舞はごめんだ』って言われるさ」
「……お前、それでここで酒を飲んでいるのか」

弟が数年ぶりに偽叡電電車変じ、千歳屋の二階を木端微塵にしたのは、去年の事である。それからこうして蛙以外の姿、狸として生活が出来るようになったのは最近であった。

「そうかもしれないが、そうじゃないかもしれない。兄さんはどっちだと思う?」
「矢二郎……もう酔っているな」
「まさか!これからだ」
「お前が饒舌な時点で十分に酔っている。もうそれで最後にしておけ」

返事はなかったが、ごくごくと酒を飲み干す音と、空になったであろう瓶が床板に当たった音が響いた。その後、弟はからからと笑い、長く長く息を吐いた。

「兄さんは、味を知らんのだ」
「必要ないと言っただろう」

それまでと随分違う調子で弟が言うので振り返ってみたが、弟の表情は見えなかった。ばさばさと長い髪の毛が影になり、その隙間からうなじが覗いている。

「酒は良いぜ、兄さん。ふわふわして、なんでも楽しく見える」
「そんなのは、おまえと父上を見てれば分かる」
「本当は俺なんかより、兄さんの方が酒を飲むべきだと思うがね。兄さんは全部が全部、真面目に考え過ぎるのだ」
「おまえや矢三郎が真面目に考えなさ過ぎなだけだ」
「俺だって、色々真面目に考える事はある」
「……ほう」

私は、弟とくっつけていた背を離し、同じ方向を向いた。
この時随分と長く弟と会話をしていたが、思えば随分と久しい事である。どうしてこの時そんな気分であったのかは、自分の事ながらよく分からない。

「ただ、その色々考えた事を口にするのは面倒だなぁ」
「お前は本当にどうしようもないな」

ふう、と私は息を吐いた。

「ただ俺に言えるのは、兄さんはもっと色々知るべきだと思う事くらいだ」
「俺が知らない事があると?」
「あるさ。酒の味、そして……」

弟が顔を上げる。火照った顔は、弟が酔っていると伝えてくる。だが、細められた瞳の奥は、どうにもただ酔っているだけには見えなかった。言葉にでも迷ったのか唇と舐め、そして躊躇したのかそれを噛んだ後、弟は私の両手を軽く押さえてから、己の唇で私のそれに触れた。
私は目を見開き、唇にどうにも好きにはなれない味が広がっていく程に眉を顰めた。いい加減突き放して説教をせねば、と思ったところで弟は私を解放し、何事もなかったかのように私の肩に頭を預けた。

「こういう味を、兄さんは知らない」
「……」
「知った方が良い。頭領として、知らねばならんよ、どちらも」

そう言うだけ言って、弟は目を閉じた。直ぐにすうすうと規則正しい寝息をたてはじめる。これだから酔っぱらいは嫌なのだ。

「俺だって、それくらい知っているさ」

弟の肩を強く抱いた。舌には、先程の苦味と強いアルコールが残り、ぐわんぐわんと不協和音を奏でている。酷く不快だが、水を求めて立ち上がる気にはちっともならなかった。私はただ、弟の肩を抱いている。随分と力がこもっている筈なのに、弟は身動ぎ一つせず眠っていた。

「知っているから、飲まんのだ。おまえが知らんだけだ、矢二郎」

――なんてことはない、私はその二つの味を何時もずっと、同時に味わっているだけなのである。