白黒的絡繰機譚

朝と昼の間

「狸とは、呑気な生き物だな」

そう言ったのは、我らが兄弟の恩師、如意ヶ岳薬師坊であった。確かに人間のように決まった時間に起きてあくせく働くような事を狸は好まない。好きな時に寝て、好きな時に起きて、好きな時に食べる。何とも気ままで呑気な生き物である。
だが、私の兄である下鴨矢一郎は、そう思わない稀有な狸の一匹である。早寝早起きを常とした規則正しい生活を基盤としてこそ、威厳が出ると思っている節がある。我らが偉大な父がそんな事をしていたかと言うと、さっぱりそんな事はない。呑気な狸でいてこその器の大きさだったと私は思うのだが、長兄は自分の信念をがんとして曲げずに生活していた。そのかちこちっぷりが威厳を損なうのだと私は思ったが、本人に告げるのは止めておいた。どうせ怒られるのが落ちである。

とある日差しの暖かい日の事であった。まだ空気は冷たいものの、日差しは春が近いと告げている様であった。私は射しこむそれに起こされて、毛玉と化していた身体をうんと伸ばしてあくびをした。隣で同じく毛玉になっていた弟の姿はどうやらすでに工場へと出かけたらしく見当たらず、あいつも辛抱強く育っているなと兄らしくしみじみ思う朝である。そこでゆるりと、私は自身の横を見やった。

「おやおや」

自然と笑みがこぼれた。起き抜けでまだぼうとした頭ではあるが、私が何よりも優先するのは面白おかしく生きる事である。ならば、この状況ですべき事は決まっている、そうだろう下鴨矢三郎よと私はいつもの腐れ大学生の姿へと変じ、そろそろと私の横にいたそれを摘み、これまたそろそろとその横にあるそれへと乗せた。後は待つばかりとそっと距離を取って姿を隠す。

「……ん?」

先に目を覚ましたのは、下になっている次兄であった。昨日の晩はどこをどう見ても小さな蛙の姿で、私の背で眠っていた筈なのだが、何故か今の姿は随分と久しぶりに見る人の化け姿である。私は起きてその姿を見た瞬間驚き、そして自分の上に乗ったままその姿に変じていなくて良かったと心底思ったのだった。
次兄はぼーっと天を眺めたまま、起き上がろうという素振りを見せない。流石は洛中にその名を轟かせた怠け者である。しばらくそうやってぼんやりすると、次兄はまた目を閉じた。目を開けていることすら億劫になったのだろう。

「……う」

次に呻くように小さな声があがる。これを発したのは私が次兄の上に載せた長兄である。前述の通り、長兄は規則正しい生活を送る狸であるが、何故か今日に限ってらしくもなく寝過ごしていた。私がこれを見逃す訳もなく、二重に驚かせてやろうと次兄の上へと乗せてみたのが先程である。
長兄はふるふると身体を震わせると、閉じていた両目を薄く開け、そして見開いた。言葉もなく自分の目の前にいる次兄の化け姿を見つめ、そしてしばらくしてからふうと息を吐いた。その時の長兄の表情が、随分と穏やかだったので、私は陰で目を瞬いた。

「んぅ」
「!?」

ごろり、と次兄が寝返りを打つ。その動きで、次兄の胸の上に載っていた長兄はころりと転がり、次兄の腕の中へ収まる。そのまま次兄はまるで幼子がぬいぐるみを抱きしめるように長兄を抱きしめ、あろうことか頬擦りを始めた。

「矢二郎。おい、起きんか矢二郎!」

ぎゅうぎゅうと次兄に抱きしめられ、頬擦りを受ける長兄が、若干上ずった声を上げた。次兄はそれが聞こえてないのかそのまましばらくぎゅうぎゅうすりすりと長兄を愛で、遂に耐え切れなくなった長兄が頬を思い切り叩くまでそうしていた。

「……おや、兄さんじゃあ、ないか」
「おい、矢二郎どうして俺を抱いている。放さんか」
「本当だ。何故俺は兄さんを抱いているのだろう。いやはや全く覚えがないな。俺は蛙だからなぁ」
「蛙が狸を抱きしめられるか! 自分の身体位把握しろ!」

長兄にそう怒鳴られてようやく、次兄は自分の身体が両生類ではなく人型である事に気がついた。長兄を右腕で抱きしめたまま、まじまじと左の掌を眺めてみたり、ぺたぺたと顔や髪を触って確かめていた。

「おや……これは一体どうした事だろう。俺は眠る前は確かに蛙だった筈なんだが」
「知らん。とにかく放さんか」
「ああ、すまないね兄さん」

やっと次兄の腕から解放された長兄は、いつもの若旦那風に変じた。そこでようやく、長兄は自身の起床時間が普段よりかなり遅い事に気がついたらしい。立ち上がってそわそわした後、肩を落とし諦めた様に次兄の横へ座った。

「どうした兄さん」
「……」
「ああ、そうか。俺が起きる様な時間は兄さんにとっては遅すぎるよなあ」
「……ふん」

長兄はふてくされた表情でごろりと横になった。次兄は心底おかしそうにころころ笑った。

「ふて寝かよ。じゃあ俺も、もう一度眠るとしようかな。兄さん、腕を貸しておくれ」
「……ふん」

長兄は鼻を鳴らすと、右腕を投げて目を閉じた。次兄はぱちくりと瞬きをしてからふ、と笑い、そして長兄の腕を枕にはせず、胸に顔を埋めるようにして丸くなった。すると次兄が動くのを止めたのを待っていたかのような仕草で、長兄はそろりと次兄の身体を抱き留めるように左腕を回した。やがて兄たちはくうくうと気持ちよさそうに寝息をたてはじめ、私はというと笑いながら姿を現す隙を見失ったまま、何とも言い難い寂しさを覚えたのだった。