白黒的絡繰機譚

待ちの月

※18禁描写有り※ 未遂ですがモブを誘っています。

「矢一郎、矢二郎がまだ帰ってこないのだよ。おまえちょっと迎えに行っておくれ」

寝床でさて眠ろうかと身体を丸めていたところに、母のそんな声が降ってきたのは居待月の夜の事だった。もぞもぞと顔を上げると、人間に化けた母が心配そうな表情で私を見つめていた。

「母上、父上と矢二郎の夜遊びは何時もの事ではないですか。また起きたら一緒に寝ていますよ」

だからご心配なさらず、と私は言った。すぐ下の弟は、本当に父上の息子で私の弟なのか疑いたくなるほど、やる気のない狸である。洛中一という声まであり、私としては頭が痛くなる。だが、実の息子がそんな事を言われているというのに、父は笑うだけだった。言いたい奴には言わせておけば良いと。
そんな弟であるが、酒の味を覚えてから少しだけ評判が変わった。私は父や弟と酒を飲まないので、あまり詳しくは知らないのだが、酒を飲むと弟のやる気のなさは霧散してしまうらしい。今、父と弟の間では偽叡山電車で人間たちを驚かして回るのが気に入りの遊びらしい。私は同伴した事がないので、それを見た事はないが、酔いも回り遊び疲れた二人が笑いあいながらふらふら帰宅する様子を見ると、偽電気ブランを好む性質ならば良かったと心底思うのである。私はその点だけは、弟の事を羨ましく思うのだった。

「そりゃ、あの子と総さんが飲み歩くのは何時もの事だけれどもね。総さんだけ帰って来たんだよ。矢二郎はどうしたのと聞いても、ふにゃふにゃ言って寝てしまって。あの子は酔っぱらって寝たくらいじゃ狸に戻ったりはしないけれども、何かあったらと思うと私は心配なんだよ。お願い、矢一郎」

だが、母は引かなかった。私の丸まった体を抱き上げて、そう訴えた。そこまで言われては、私も無視して眠る事など出来ない。あいつも困った奴だと溜息を吐いて、母の腕から抜け何時もの姿に化けた。

「父上はどちらから帰って来られました?」
「朱硝子の方だったけれど……でも、遊んで帰って来たのならどうなのだろうねえ。もし線路で寝こけていたりしたら……」
「……まあ一通り見てきますよ」
「頼んだよ、矢一郎」

母の視線を背中に浴びながら、私は糺の森を抜け、夜道を歩いた。寺町三条へと続く道は、夜中ともあってしんと静まり返っている。私の着物の端が身体に当たったり、首飾りが肌にすれる音が響き気渡るような心地がした。実際のところは、そんなものよりもアスファルトに靴底が擦れる音の方がずっと大きい。しんしんと、夜闇の静けさと私の衣服と身体が立てる音だけが耳に届く。

「――」

ずい、と音を立てて私は歩みを止める。ひくり、と耳に届いた音の方向へ目を向ければ、小瓶が転がっている。それは、やや遠い街灯の光に照らされる偽電気ブランの空き瓶であった。これは、と思いそちらへ足を向ける。

「――ない」

男の声が聞こえる。弟のものではない。寝こけているところを誰ぞに見つかっているのだろうか。私は、偽電気ブランの空き瓶の向こうにある小道に駆け入った。

「矢二郎!」
「――ん?」

そこにいたのは、思った通り我が弟であった。これまた思った通り寝こけていたのであろう、だらしなく家屋の壁に寄り掛かっている。
しかし、一つ私の思っていなかった事がそこにはあった。

「何だ? 彼氏か?」
「そんなところさ」

思った通り、酔っぱらい寝こけていたであろう弟は、誰ぞに見つかっていた。それにはある意味感謝するべきなのだろう。
――だが、弟はその見つけた男に、馬乗りにされて衣服に手をかけられていた。目を見開いて弟を見つめる私に、弟はへらへらと笑いかける。それを見て、男は舌打ちをして弟の上から退き、苛立った様子で私の肩を押した。

「ったく、彼氏いんなら先言えや」
「いやあ、悪いね。……思ってた以上に、束縛が強かったらしい」
「なっ!?」

肩を怒らせて大股で歩いて行く男にへらへらと手を振った弟は、そのまま赤玉ポートワインのようになった瞳で私を見上げた。見上げられた私はと言うと、まだ先程起こった事を飲み込み切れず、呆然と立ち尽くしていた。

「やあ、兄さん。迎えに来てくれたのかい?」
「矢二郎、今のは」
「ん? ……ああ、そうか兄さんには訳が分からないよな。だが、きっと言ったら兄さんは怒るだろう」

さて如何すべきか、と呟いて、弟は瞳を閉じた。それと同時にずるりと肩が下がったので、私は膝をついてそれを支えた。そして、ぺしりと頬を叩く。

「おい、寝るな。起きろ、そして立て」
「ううん……面倒くさい。……ああ、そうださっきのだが、あの男は俺を抱こうとしていたらしい」
「めんどうくさが……はっ!?」

今、弟は何と言っただろうか。私はその言葉を咀嚼できずに固まる。
頭が固い固いと言われる私であるが、今弟が発した「抱く」という言葉の指すところくらいは分かる。だが、弟の上に馬乗りになっていたのは男である。勿論、私の弟はその単語の指す通りこれまた男だ。女の姿に化けているでもない。
混乱する私に向かって、弟は酷く饒舌に言葉を続けた。曰く、弟は人間に化けると女よりも男に好かれるらしい。気性の激しい男に好かれる事も多く、その場合はあのように性急に身体を繋げようとしてくるそうだ。弟は自分の身の危機である筈なのにそれを「まあ、悪くはない」と笑い飛ばした。

「はははは。いやはや兄さん、この暗闇でも分かる阿呆面だ」
「……っ、もういい! 母上が心配している! さっさと帰るぞ!!」
「にいさん」

ぐいと腕を引いた私の手に、弟の掌が重ねられる。酒の所為か、酷く火照っている。酔って帰って来た弟の身体に触れた事は今まで何度もあったのだが、こんなに火照っていた記憶はない。一体どうしたのだろう。もしやこんな所で寝ているうちに風邪でも貰ったのであろうか。

「おい、矢二郎おまえ酷く熱いぞ」
「そりゃあそうさ」
「自覚があるなら何故こんな所で寝る! タクシーでも拾って帰ってくればいいだろうが!」
「にいさん」

ファン、と音がして通りを自動車が抜けた。一瞬私と弟をそのヘッドライトが照らす。その瞬間の弟の表情を、私は覚えていない。

「火照ったままでは、帰れそうにない」
「俺が手を貸してやるから。ほら、立て」
「……兄さん」
「何だ、母上が心配していると言っているだろう。いい加減にしろ」

掴んでいた弟の左手が、私の胸を力なく押した。左手もやはり、火照っていた。これは相当の高熱に違いないと私は思った。これは変化を解いてもらい、抱えて帰った方が良いのかもしれない。

「兄さん」
「だから何だ。おまえ、熱と酒でおかしくなったか」
「……ああ、そうだ。そうかもしれない。そういう事にしておこうか」
「全く……ほら、変化を解け。抱えて帰ってやる。その方が楽だろう」

私の言葉に、弟は俯いてやっとのろのろと尻を浮かせた。だが、少し尻を浮かせたと思ったら「おっと」などと白々しい声を上げて、私の身体へ覆いかぶさった。私はそれを受け止めきれずにどん、と背中をブロック塀へ強かに打ち付けた。

「矢二郎!」
「兄さん、そんな耳元で怒鳴られては耳が痛いよ」
「おまえが悪いのだろうが!」
「そりゃすまない。……ああ、駄目だ。やはり火照っている」

ふう、と肌に酒臭い息がかかった。私が眉を顰めると、弟は私の肩に埋めていた顔を上げた。それは何故か、私の見た事がない弟の顔だった。何とも形容しがたい、まるで他人の様な顔であった。だがそれは間違いなく、私の弟、下鴨矢二郎でもあった。

「にいさん」

甘ったるい声であった。その声は、父に社会勉強だと連れて行かれたいかがわしい店で聞いた事がある種類の甘ったるさであったが、それとは違ってずん、と私の身体に沈む声であった。それを聞いた私の身体から、ふつりと力が抜けていくのが分かった。手の甲が地面に触れる。私の上にいる、弟の身体が熱いからであろうか、酷く冷たいと思った。

「矢二郎」
「兄さん」

ぷちぷち、と小さな音が聞こえた。弟がシャツの前を開けた音だと分かったのは、私の目の前に弟の肌が見えてからであった。

「……ああ、そうか。俺が準備しないと、駄目か」
「? 矢二郎……?」
「兄さんは何もしなくて良い。俺が勝手にするよ」

何を、と聞く前に私の唇は、弟のそれで塞がれた。粘着質な水音が鈍く頭に響き渡る。唾を全て持って行かれる様なそれに、私はただ苦しく鼻を鳴らして息をするだけであった。やや視界が霞み始めた頃、やっと弟は口を放し、その中に溜まった唾を右手の指に絡めた。届く月明かりで、ぬめぬめと光っているのが見える。

「矢二郎……っ、お前何を」
「兄さんも火照ってきたみたいだ……」

私の問いに答えず、弟はぬらぬら光る指を自身の後ろに回した。私からは、何をしているのかさっぱり分からない。ただ、弟の苦しそうな息遣いだけが分かった。それを聞く度に、確かに弟の言うように私も火照っているような気がした。いや、火照っていたのだろう。

「面倒だ、はあ、もういいだろう……」

弟は私の太腿に手を這わした。それでやっと、私は弟が何をしようとしていたのか、明確に理解した。

「矢二郎、待て。それは」
「いいじゃあ、ないか。兄さん。……もうお互いにどうにかしないと帰れそうにない」
「……っ」

弟の言うことは事実であった。
口付けと目の前の弟の「何か」を目にして、私の身体は確かに火照っていた。それを認めるのは癪であったが、事実であった。だから私は、弟の言葉を否定する事は出来なかった。私が黙ったのを良い事に、弟は勝手に私の前を寛げ、取り出したものを勝手に弄り始める。

「っ、やめ、おまえ」
「大丈夫だよ、にいさん」
「何が、だ……!」
「もう大丈夫だろ」

だから何が、と呟く前に、酷い圧迫感が私を襲った。

「っ、いた……。ほんと、痛いん、だな……」
「おまえ、なにをして」
「ちょっと、だまって……あ、う……っ。ん、あ……」

ず、ず、ず、と私と弟の身体が繋がっていくのが分かった。混乱する私の事を置き去りにして、弟は私の肩に両手を置いて、苦しそうに繋がりを深くしていく。仰け反った喉が、やけに白く見えた。

「……あ、ああ……。これで、全部……?はは……」
「やじろう、おまえ」
「俺が勝手に、動くから……兄さんは、まあ楽に……」
「お前、は、いい加減、黙れ……っ」

がし、と弟の腰に手を這わせた。ひくり、と弟の身体が痙攣したように震えた。
――この時、私は生涯初めて自分が雄である事を思い知った。

「にい、さん……」
「……矢二郎」

人でも狸でも、何にしても見つかれば一大事だろう。父上の顔に、下鴨家の名に泥を塗る事になりかねない。それは私にも、きっと弟にも分かっていた。だが、いつの間にか私の口からも、そして私に優位を取られた弟からも始まったものを止める言葉は出てこなかった。それどころか、何度か繰り返していた。
ひどい話だ。そう、とてもひどい話だ、これは。あの後、どうやって二人糺の森に帰りついたのか、記憶が曖昧で思い出せない。ただ、母にも父にも何も言われなかった事は覚えている。勿論弟も、何も言わなかった。だから私も、何かを言う事はなかった。



――どうしてあの日、ああなってしまったのか。
それは、弟が蛙となり井戸に籠ってしまった今となってはもう、分からない。
私に出来るのは、ただ弟のいる井戸を見に来るくらいである。あの日の様な月の下、闇の中にぼんやりと弟の輪郭がある事を確かめて、そして帰るだけである。
私の背に、ぷくりと泡が割れる様な音だけが届いた。