白黒的絡繰機譚

カフェイン+

Let's make the most of our time togetherが月折だったのならば、的な話

効率よく成果を出せば、評価される。
単純明快な分かりやすいその仕組みが、ユーリは好きだった。
どこかの国には年功序列なるユーリにとっては発狂しそうな慣習があるそうだが、この国にはそんなものはない。成果が出せるか否か。それだけが全てだ。

そう、それだけが全て。食事だって睡眠だって、最低限以外は邪魔なものだ。同期の社員が幸せそうな顔をしてギトギトした油にまみれたファーストフードを食べているのを見ると、何時だって理解に苦しむ。百歩譲ってフレンチフライ位なら許そう。だがユーリには、それ以外を到底理解出来ない。したいとも思わない。
だから最近昼休みは、わざわざ時間をかけてまで、一区画先のドーナツショップに赴くことにしている。ここならば誰にも会わないし、何より店がL字状になっており、店員も他の客もほとんど来ない席があるからだった。
通い始めて一か月程は、平穏な時間を過ごした。あの頃は良かった、とユーリは思う。
――それが、今はどうだろうか。

「ユーリさん、まだ終わりませんか?」
「……」

首に回った腕も、肩にもたれかかる様な頭も、太腿に食い込む重さも、全て無視をする。
ユーリの視線は、持ち帰った書類とパソコン画面から動く事はない。

「……もう、二時間経ちましたよ」
「……」
「お腹空きました」
「……」
「ユーリさん、今日もベーグル一個だけでしたよね。お腹空かないんですか?」
「……」

答える必要も無さそうな言葉が、ユーリの耳を素通りしていく。
声の主――イワンの言葉は、基本的に何時だってユーリの耳には、意識には届かない。それは彼がここ、ユーリの自宅へ殆ど自由に来れる様になった今でも変わりがない。何故ならユーリには、全てが無駄なので。
――それならどうして無駄がここにあるのか。答えは簡単だ。有益な事もあるからだ。

「……コーヒーを」

モニターとB5用紙から目を離すことなく、ユーリが呟く。
その言葉に、イワンはまるで犬や猫の様にぴくん、と反応してそして少し頬を赤らめる。

「はい!すぐ煎れますね!」

ユーリの身体を開放して、キッチンへと走る。
すぐに嗅ぎ慣れた香りが、フロア中を満たしていく。

「……」

かたかたと、自由になった両手でキーボードを叩く。
両手が自由になれば、こんな仕事はすぐに終わるのだ。本来なら。

「――お待たせしました!」

ぱたぱたとイワンがマグカップを二つ持って戻って来る。片方はユーリ用のアメリカンコーヒー、もう一つはイワン用のココアだ。
ユーリは彼のコーヒーを煎れる技術を買っているのだが、彼自身は何故かコーヒーが飲めない。
バイトだけで培ったと言っていたそれが、実はユーリの為だけに学んだものである事を、勿論ユーリは知らない。イワンも、知らせるつもりは毛頭無い。

「……」

無言でマグカップを受け取り、一口飲む。何時もと同じ味がした。

「……まだ、かかります?」
「……」

かたかた、とキーボードを叩く音だけが響く。

「帰った方が良いですか……?」

響き続けていた音が、その言葉と共に、止まる。

「イワン」
「はい……」

最後に[Ctrl]+S、そして終了。アプリケーションは閉じられて、単色の味気ない壁紙と数個のアイコンだけが表示される。

「私は君が、ここに来る前、泊まって行くと宣言していた記憶があるのだが?」

やっとユーリの視界に映ったイワンの顔は、酷く嬉しそうだ。
ユーリにはとても不思議なのだが、イワンは何時だってユーリの視界に入るとそういう表情を浮かべる。彼自身が言っていたので、そこに込められた感情は知っているのだが、些か強すぎるそれの必要性があまり理解出来ていない。

「泊まって良いんですか?」
「ここで駄目だ、と言ったらどうする」
「……帰ります。ユーリさんがそう言うのなら」
「君は年長者には随分と従順だな」

バイトをするドーナツショップで、随分と可愛がられているのを知っていた。
良く働き、良く動くイワンは、まるで従順な犬の様に店員に信頼され、愛情を受け取っている。

「よくそれっぽい事は言われますけど……。でも」

きゅう、とユーリの腰に抱きつく。
それを振り払わない事実が何を示すのか、ユーリは未だ分かっていない。

「ユーリさんだけです。僕は、その……」
「……」
「とにかく、ユーリさんだけです。あの、本当に泊まって良いんですよね」
「構わないが。君の好きにすれば良い」

好きにすれば良い、これはよくユーリがイワンに向けて言う言葉だった。

「じゃあ好きにします。とりあえず夕食を食べませんか?僕、お腹空きました」

もう少し前は、その言葉を聞く度にイワンはどこか寂しそうな表情をしていた。
しかし、最近になって真逆の、嬉しそうな表情を浮かべるようになった。その変化のきっかけを、ユーリは覚えていない。きっとどうでも良い様な些細な事なのだ。
――そして、それと同時期にユーリが例えば今の様に、抱きつかれれば無意識に腕を腰へと回すようになった事も、覚えていない。



『……君が何を怒っているのか、分からない』

サラダとスープと、そしてイワンだけチキンを食べる夕食が終わり、促されるままに風呂へと入った。
そして少しはユーリとテレビでも見ながら話が出来たらいい、そう思ってリビングの扉を開けた時、ユーリはまた、食事前と少しも変わらない姿勢、行動、作業をしていた。

『ああ、イワン。早速だがコーヒーを煎れてくれないだろうか』

イワンの方を見もせずにそんな事を言う。
その様子は、先ほど泊まっていって良いといったユーリとは、違う人に見えた。

『そんなにコーヒーばっかり、飲まないでください。仕事だって、明日も明後日もあるでしょう?』

叩きつける様にコーヒーを出して、そして音を立てて扉を閉めた。
そのまま、まだ少し濡れた髪を揺らして、ベッドルームの扉を開ける。
そして、ぴしり、と奇麗に整えられたシーツの中へ、無遠慮に侵入する。これはきっと他の誰にも許されていない、イワンだけの特権だ。
冷たいシーツに、温まった体が泡立つ。イワン一人には広いベッドは、まだ残りのスペースが埋まる様子は無い。

「……」

もぞり、と寝返りを打つ。あまり動くと、シーツが皺だらけになるので、いい顔をされないかもしれない。
といっても、もう乾いていない髪で枕を使ってしまっているので、今更だろうが。

「……早く、一緒に寝てくれれば良いのに」

恐らく、ユーリの所為だ。
イワンが不安なのも、不満なのも、それでも離れる事が出来ないのも、全てが。
金曜日なのに仕事を持ち帰り、一段落ついてもやはりイワンに構ってくれないユーリの所為なのだ。


――かたかた、と食事前に止まっていたなキーボードの音が響く。
ワーカホリックであるユーリは、仕事を常に抱えていないと不安で仕方がない。仕事で評価されたい、という欲求は、仕事でしか評価されない、という劣等感の裏返しである事を、本人は気がついてはいなかった。

「……」

風呂上り、自宅でのみ使う眼鏡を外して、目を瞑る。身体の奥からは睡眠欲が湧きあがってくる。思考はそれを否定する。
パソコンの横にあるコーヒーに手を伸ばす。一口飲んで、ユーリは眉を顰めた。
普段碌に見もしない時計のガジェットに目をやれば、このコーヒーが煎れられたであろう時間から随分と経っていた。

『今日は、これで最後にしてくださいね!カフェインの取りすぎは、身体に悪いんですから』

これを置いて一足早くベッドルームへ行ったイワンは、確かそんな事を言っていた。酷く不機嫌な様子で。
身体に悪い、と言われてもユーリの身体はコーヒーを欲する。もうとっくにカフェインなぞ効きはしないが、それでも。
かたかた、とまた少しキーボードを叩く。泊まって行く、と宣言した彼を受け入れた割には、まだこんな事をしている。彼が自由意思なのだから、自分がそこに必要ではないと思う。けれど、何故泊まっていくという選択がなされたのか……それは自分が関わっているという事も知ってはいた。
はぁ、と息を吐いて、パソコンの電源を落とす。もうこれ以上は出来そうにない。出来たところで、効率よく進まない。
まとめていた髪の毛を解いて、ベッドルームへと向かった。

「……イワン、寝ているのか」

ベッドルームは真っ暗で、衣擦れの音すらしない。
入口のスイッチで、間接照明を灯す。ぼんやりとした明かりを頼りに、ベッドへと近づく。

「イワン」
「……」

すうすう、と規則正しい呼吸と、あどけない寝顔がそこにあった。
端に寄りすぎて落ちそうになっている身体を少し寄せて、隣へと潜り込んだ。ユーリの身体に触れるシーツは、冷たい。

「良い夢を、イワン」

温かい頬を撫で、温かい身体を抱き寄せる。気恥ずかしいという訳ではないのだが、今の様な表情をユーリがする事を、まだイワンは知らない。
そして、ユーリは目を瞑る。
この身体を抱いて眠ると深い眠りにつけるのだから無駄ではないのだ、と誰かに向けて言い訳をしながら。