白黒的絡繰機譚

右半身の幸せ

仕事をすれば、嫌でも目に入る。
家に帰っても同じだ。
だから私は、ほんの時々――気まぐれを装って、このインターホンを押す。

『はい』

心なしか嬉しそうな声がした。現代では大変珍しくモニターのないインターホンでは見えないのを良い事に、私は笑みを浮かべた。私だけではないのだと安心して。

「いきなりすまないが……入れてくれないだろうか」
『あ……っ、はい!どうぞ!』

がちゃり、と音声が途切れるとほぼ同時に、ばたばたと忙しない足音が聞こえた。
ああ、歓迎してくれるのだ。ほんの10分前に一方的なメールを送っただけの私を。

「ユーリさん」
「イワン」

時刻的にも、こんばんはと言った方が良い気は何時もする。毎度毎度、私がこうやって彼の家に行くのは夜なのだから。
けれど、今更おはよう、という事はあってもそれ以外の挨拶をする必要性もない気がする。今はヒーローと管理官ではなく、ただのユーリとイワンなのだ。

「何時も、連絡が遅くてすまない。……迷惑だっただろうか」
「そんな事は、全然……!あの、上がってください。ご飯食べました?」
「……君の作るものが食べたくてね、まだなのだが」
「っ!」

赤く染まっていく顔を目を細めて見つめる。
この家だけだ。君の前だけだ。私が何時までも燃える青い炎とその原因を忘れる事が出来るのは。

「これだからユーリさんは……」
「私が、何か?」
「!何でもないです!すぐ支度しますから!何時も通り座って待っててくださいね」

ぱたぱたと顔を伏せて走って行く背中を見送って、私はゆったりと居間に向かう。
日本式のこの家では、玄関より中は靴を脱がなければいけない。すっかり慣れた靴下での歩行で廊下を歩き、襖を開ける。酷く広い畳張りの空間は一人では持て余すのではないかと思うのだが、家主であるイワンはちっともそんな事を思わないらしい。
座布団に腰を下ろし、机の下に足を投げ出す。正座、というのものはあまり向いていない事が分かっているし、胡坐、と呼ばれるそれもなんとなくしっくりこない。食事をする際はそうもいかないので、胡坐を掻くが。
普段ならば、空き時間は情報収集や持ち帰った仕事の消化に充てる。だが、この家ではそれは絶対にしないと決めていた。ここは、全てを忘れて欲しいものだけを得るのだと、勝手ながら決めているので。
ただ肘をついて、襖が開くのを待つ、それだけだ。

「お待たせしました……っ」

なんとか頬の色を戻したイワンが、おずおずと襖を開ける。ふわり、と鼻をくすぐった香りは、この和室には似つかわしくない共通の慣れ親しんだ香りだ。

「ふむ、私はどうやらあまり迷惑をかけない日に来る事が出来たらしい」
「え、……あー、まあ、そうですね。メール貰った時、ボルシチ作ってて良かったって思いました」

盆の上の食器たちが、机に広げられていく。
私は先ほどと同じ様に肘をついて待っているだけで、何もしない。
何もしない特権。素晴らしくないだろうか。

「いただいて良いだろうか」
「勿論です。どうぞ」

へにゃり、という擬音が似合うようなはにかんだ笑みをイワンは浮かべる。
花の様に笑うのも好きなのだが、この笑みも捨てがたい。どうせ私は、この子の全てを求めているので、順位を付ける事なぞ意味がないのだが。

「どうですか、味は……」
「君の作ったものが美味しくなかった記憶はないな。勿論今回も」
「良かったです」

自分に自信の無いイワンは、何時も私に確認をする。何度言っても、それは変わらない。
……変わらないものは、誰にだってある。私も変わらない、変えられないものは山のようになる。
けれども、私の前だけでもそれを忘れてくれたら良いと願ってしまう。私が勝手に君の前でそうしている様に。



「――ご馳走様」

スプーンを置くと、イワンが少しだけ悲しそうな顔をする。
殆どの場合において、私が食事が終わると帰ってしまうからだろう。申し訳ないと思う。だが、私が私でいられる時間は、殆ど持てない。君がヒーローの要請を受けるためのPDAを外す事が出来ないのとそれは同じ事だ。
私が何時でも私でいられるのならば、なんとしてでも彼を何時だって「イワン・カレリン」でいられるようにしてしまうかもしれない。けれども、私が管理官であり、裁判官であり、ルナティックであり、そうなるまでの過去と現在がある以上、それを望む事が出来ない。だからこうやってそれを全て忘れる時間を作る。
君に全てを隠したまま、私だけを見てもらえる時間を。

「僕、片づけてきますね」

腰を浮かせたイワンの腕を引く。がちゃん、と空の食器が机の上で跳ねた。

「それは後で私がやろう」
「……え?」
「こちらへおいで、イワン」

困惑したような顔をしたものの、イワンは逆らわずぐるりと回って私の前にちょこんと正座をする。

「メールでは、ただ行っても良いかとだけ聞いたが……。本当は、もう一つ聞きたい事があってね」
「もう一つ、ですか?」
「今日泊まっても、迷惑にならないだろうか?」
「!」

突然メールをして、食事をして、そして泊まるだなんて、まるで都合の良い愛人の様。
そんな扱いしか出来ないかもしれない――そう言ったのは、私だった。
それでも良いです――そう言ったのは、イワンだった。
本当にそれだけな付き合いをしている訳ではないのだが、否定は出来ない。本当はもっと、ずっと、私が私として君と共にありたいのに。

「……もし、迷惑だ。って言ったら……帰っちゃうんですか……?」
「それは勿論」
「……そこで無理やり泊まっては、くれないんですか」
「私は君の意思を尊重したのだが」
「僕はユーリさんの好きなようにして欲しいんですけど」
「イワン」
「はい?」
「時々君は、途方もない爆弾で私を攻撃するな……」
「え?……え?」

慌てるイワンの頭を包んで、抱きしめる。私の愛しいイワン・カレリン。ヒーローでも何でもない、ただのイワン・カレリンが私の腕の中にある。
抱きしめている私も、ただのユーリ・ペトロフだ。

「イワン」
「はい」
「イワン」
「はい」
「イワン……」

ただただイワンの名前を呼ぶ。こう呼べる時間すら、私には少ない。

「ユーリさん」

何時の間にか抱きしめられているのは私になっている。細く白い腕が私を優しく包む。

「明日の朝、何食べますか」
「……何でも」
「それじゃあ困るんですけど」
「君が作るのならば、私はなんだって構わない」
「……箸使うメニューにしちゃいますよ」
「良い」
「そうですか……。この後はどうします?先、お風呂行きますよね」
「イワン」
「はい」
「分かっていて聞いてるだろう」
「……まあ、はい」
「ならばそういう事だ」

どうして君は、私の好きにさせてくれるのだろう。
君に自信がないように、私もその理由に自信がない。今の私は、何も持っていないただの「ユーリ・ペトロフ」だから。

「イワン」
「ユーリさん」

それでも私は、きっと何があってもこの関係を捨てられないのだ。
ただの「ユーリ・ペトロフ」はただの「イワン・カレリン」を、

「愛してる」
「愛してます」

職務も罪悪感も親も約束したばかりの片づけも全て忘れてしまうほどに、愛しているので。