白黒的絡繰機譚

魔法の扉と子供の王様

「やっぱり、多くないですか?」
「そんな事はないよ。二人ならあっという間さ」

キースとイワンはぎっしりと食材が詰め込まれた紙袋を抱え、帰路についていた。
ヒーローとしての仕事は突発的であるが、一流企業の正社員という立場の二人は、基本的に土日祝日は休みである。
性別の壁を風と共に飛び越えて数ヶ月、こうやって週末ごとに一緒に買い物をして帰るのは恒例行事となっていた。
キースがカートを押し、ぽいぽいと思いつくままに食材を入れ、イワンがその中から『絶対に食べないであろうもの』をいくつか小走りで棚に戻す。
買い物の後に向かうのが、イワンの家だったらそれらが食べられない事も無いのだろうに。

「あ、キースさん荷物、ください」

キースの住むマンションの前で、イワンはそう言った。

「え?」
「ください。持てますから」

殆ど強引にキースの持つ紙袋を奪い取る。イワンの腕の中はいっぱいいっぱいだが、この後の展開――もし持たせたまま家に入った場合――を考えると、それも仕方がない。
少し早足で、エレベーターに乗り込む。

「……重くないかい?」
「大丈夫です」

完全に嘘なのだが。震える自分の腕に、イワンはトレーニングが足りないかと息を吐く。
そうこうしているうちにキースの家の扉の前に二人は立つ。
キースがポケットから鍵を取出し、扉を開ける。




――例えば、子供向けのファンタジー。
そこではこんなシチュエーションはきっと珍しくないのだろう。

『なんの変哲もない扉を開けると、そこは不思議の国だったのです!』

ある意味、ここはイワンにとって不思議の国だ。たった一枚の扉を開けて、たった一歩中に入るだけで、この部屋の持ち主は不思議の国の王様に早変わりしてしまうのだから。




イワンより一歩先に中へと足を進めたキースが振り返る。
その顔つきは、何時も――外と違い、どこか幼い。そんなキースが、壁にもたれ掛って不機嫌そうな表情を作る。

「……はぁ。イワン、お腹が空いた。お菓子もディナーも君も全部が今すぐ食べたい。とりあえずはお菓子を食べるよ」
「駄目です」

抱えていた紙袋を体の後ろに隠す。中身は本日のディナー用の食材と、あくまでもイワンが自分用に購入したチョコレートだ。

「む、チョコレートがあっただろう。私のだっていうのは分かっているんだよ。ほらイワン、私はお腹が空いたんだ」
「駄目ですってば。どうせチョコだけじゃなくてポテトチップもゼリービーンズもアイスクリームも全部食べてしまうんでしょう?またディナーが食べれなくなりますよ。それにこのチョコは、僕のです」

――好きになって、好きだと言われて、デートもキスもすませてから初めてキースの家へと足を運んだイワンは、一歩踏み込んだ瞬間に、まるでハンマーで殴られた様な衝撃を受けた。
家の中には、キング・オブ・ヒーローと呼ばれ、その名に恥じない活躍と性格を持っている筈のキース・グッドマンは存在していなかった。
存在していたのは、お菓子とイワンがひたすら好きで、家事どころか下手をすれば自分の身の事すらまともに出来ないし、したくないという子供の様なキース・グッドマンであった。

「……イワン、私はチョコレートが食べたいんだよ。そう言ってるのに君はそれを拒否するのかい」

どさり、とソファに寝転がったキースが天井を見上げながら不満そうな声を出す。

「します。……僕は嫌ですよ。キング・オブ・ヒーローが飛べないほど太るのは」

外でのキースはともかく、家の中のキースはひたすらお菓子と肉ばかり食べたがる。魚はまだ食べない事もないのだが、野菜はほおっておくと皿の上に何時までも鎮座している。
不満に頬を膨らませる彼を宥めて、お菓子の袋を取り上げ、料理を食べさせる……まるで母親みたいだと、イワンは苦笑するしかない。

「そんな事になる訳がない」
「なりますよ。それ位何時もお菓子ばっかり食べて」
「私がならないと言ったらならないんだ」
「意味が分かりません。……良いんですか、キースさん」
「キースさん、じゃない。キースだ」

『さん付けなんて、嫌だ』と家の中のキースはイワンに言う。外に出ると『君が言いやすい方で構わないよ』と言うのに。
まるで別人のように、けれど同一人物が自分はイワンの恋人だと自称する。

「じゃあ……キース、僕は嫌だけど。太ったスカイハイも、太ったキースも見たくない。嫌いになっちゃうかも」
「それは困る!」

がばり、と上半身を起こして、絶望したような目でイワンを見つめる。
外の余裕のあるキースと違って、家の中のキースはイワンがいないと二つの意味で生きていけない。

「じゃあ、いいこにしてて。今すぐ用意するから」

紙袋を持ってキッチンへと向かう。
一人暮らしには大きすぎるだろう冷蔵庫には、ぎっしりとお菓子が入っているのを知っているのは、一体この世界で何人いるのだろうか。
何とか隙間に詰め込む様にして紙袋の中身を収めていくと、家の主の愛犬がイワンにすり寄ってきた。

「くぅん」
「こんにちは。……そっか、君はこの冷蔵庫と戸棚の状況を知ってるんだっけ。待っててね。ちゃんと君の分も買ってきたよ」

頭を撫でて、紙袋の底から缶詰を取り出す。
それが何かちゃんと理解したのか、キースの愛犬は嬉しそうに尻尾を振った。

「イワン!イワン!」

リビングを見ると、キースがうつぶせの姿勢でイワンを呼んでいる。

「何ですか?テレビでも見ててくださいよ」
「いや、その前に言っておくことがあって!」

さっきまで絶望に染まっていた顔は、何時の間にか悪戯を思いついた子供のような表情をしている。

「よくよく考えたら、さっきの君の発言はおかしい!どんな事があっても君は私の事を嫌いになれない癖に!」

という事でチョコレートをくれないか!
満面の笑みで手を差し出すキースに、イワンは何も言い返せない。




『イワン、家に君を招く前に、一つ言っておくことがあるんだ』

初めてキースの家へと行った時、少し悲しそうな顔でキースはイワンに切り出した。

『私は君が、何か私に言えない秘密を持っていても、それごと君を愛すると断言できる。……けれど、私は今まで隠してきた秘密……というかな、そういうものを君に打ち明けるのが怖い。とても怖い。君がこれを知ったら、私嫌いになってしまうんじゃないか――そう、思ってしまうんだ』
『……キースさん』

何を言って良いか分からず、イワンはただ紙袋を持って立ち尽くす。

『もしこの扉を開けて、その中に入って――そしてそこでの私を見て、少しでも嫌だと思ったら、私が何を言っても、どんなに引き留めようとも帰って欲しい。お願いだ』

そして、扉を開けたキースを見たイワンは――。




「……そんな、ことは」
「私は知っているからね。君は私が大好きだ。愛してる」
「……」
「君だけだよ。私の家に来て、それでも私を愛してくれたのは君だけだ。君だけで良いのだけれどね」

顔を伏せたまま動けなくなっているイワンを、ゴールデンレトリバーが心配そうに覗き込む。

「――また、私を好きになったんじゃないかな?という事で、チョコレートを貰うよ、イワン」

何時の間にかイワンの前へとやって来たキースが、その生え際にキスを落とす。ビクリと反応したがやはりそのままの姿勢で動かない。
がさごそと紙袋を漁ると、板チョコを取り出して、満面の笑みを浮かべた。

「だ、めです……」

イワンの手が、キースの上着――まだ着たままこの人はうろついている――を掴む。

「む、良いじゃないか。これくらいじゃお腹いっぱいにならないよ。大丈夫さ」
「駄目です」
「イワン」
「キース」

やっと顔を上げたイワンが、キースを睨む。真っ赤な顔のそれは全く効果がない事にイワンは気が付いているだろうか。

「駄目です。……ディナー食べて、デザート食べて……僕を、食べるんでしょう?食べすぎですから」

だから、我慢してください。
その言葉には王様も黙って、そしてとても珍しくディナーの準備を手伝う事しか出来なかった。