白黒的絡繰機譚

ひたり金の味

「ヴィー……ビィ、ウィ?」
「……」

ヴィルギル・ディングフェルダーは急いでいた。雇用主であり唯一の上司であるマーク・シュナイダーを見送り、明日の予定を確認して事前準備、そうしてようやく退勤だ。その後の一分一秒たりとも無駄には出来ない。だから急いでいる。それなのに。

「ヴィ。んー……あー、ビルギル。あれ、おっかしーな」
「先程から、一体何の御用ですか」

かつかつかつ、と靴音が響き渡る駐車場で、ヴィルギルはその歩みを止めた。振り返った先には、先日大金を積んでアポロンメディアが獲得した鳴り物入りのニューヒーロー、ゴールデンライアンことライアン・ゴールドスミスが気だるげに立っている。ゲート外で壁に背を預けていたこの男は、何故かヴィルギルの姿を見つけると駆け寄って来て名前を呼ぼうと四苦八苦していた。

「あれ、もうお仕事終わりっしょー?もうちょいフランクでも良いんじゃない?それともアレ?ジュニアくんみたいにその辺変化ない系?」
「仰っている事が分かりかねます。一体何の御用ですか」

そう言って眼鏡を押し上げたヴィルギルに、何故かライアンはいいものを見つけた、とでも言いたげに片眉を上げる。

「アンタ鉄面皮みたいに見えて、結構顔出ちゃうタイプ?いいね、そういうの」
「そうですか。用件がそれだけならば、私はこれで」
「ちょ、ちょーっと」

くるり踵を返したヴィルギルの左手首をライアンが掴む。

「まだ何か」
「直接言わないと分かんねぇ?」
「できれば簡潔に、どうぞ」
「……好みだ、アンタみたいなの」

視線がヴィルギルの全身を舐めまわす。そういう事か、とヴィルギルは内心吐き捨てた。そういう目で見られた事は、初めてではない。

「私はそうではありません。では」
「だーかーら!うぃ……、ビルギル!」
「ヴィルギル・ディングフェルダー、です。発音は正しくされた方が宜しいかと」
「アンタの名前言いにくいんだよなァ。……そうだ」

にやり、とライアンの口元が歪む。その顔は確か先日、契約書を見た時の表情と似ていた。
まだヴィルギルの手首は彼に掴まれている。彼のようなNEXTに対抗する手段をヴィルギルは持ち合わせていなかった。

「手、放して欲しいんだろ?急ぎ足だったもんな。……放す代わりに、教えてくれよアンタの名前の、発音」

ちゃんと、分かり易く。
そう喉で笑う声は、視線と一緒に唇へと落ちた。

「お断りします」
「じゃあ放さねぇ」
「迷惑です」
「いーじゃん、教えて?」
「……」

ぎりぎり、じりじり。何かがヴィルギルの中で湧き上がる。怒りか、呆れか、それとも他か。その違いをヴィルギル本人は理解しない。何でも同じだと、切って捨てる。
ライアンの掌が頬を撫ぜた。

「な?」

ひちゃ、ライアンの下先が唇に触れた。嫌悪は特に湧かなかった、とヴィルギルは記憶している。
そのまま舌先が割り入って前歯に触れる。それが割り入る前に、ヴィルギルは拘束されたままの手首を持ち上げ、回転させ、中指の関節に舌を当てる。振動が伝わるように。

「ヴィル、ギル。ヴィルギル。……お忘れなく」

ひちゃり、熱い指を解放する。

「……ワォ、予想外」

解放される手首を確認して、再度ヴィルギルは踵を返す。
言葉通り、ライアンが追ってくる事はなかった。