白黒的絡繰機譚

33.5~42.0

「暑い」

朱雀のうんざりしたような声に、玄武は顔を上げた。

「そうでもないだろ」

真夏の昼間だが、開け放った窓からは適度に風が吹き込み、やや黄ばんだ扇風機が風量強めで首を振っている。更に言えば今日は猛暑日でもなく、平均気温は昨日より低いくらいだ。それでも、部屋の主である朱雀はもう一度「暑い」と呟いた。

「つーか玄武よ、おまえはどうしてンな涼しい顔できんだ?」

自室であるのをいいことに、朱雀は下着に腹巻きというラフなのにも程度がある格好をして、ベッドに背を預けている。玄武としてはその腹巻きは取った方が良いのでは、と思うのだが、彼には彼のポリシーがあるので、口には出さない。一方玄武はというと、いつもと変わらず学ラン姿である。やや長い袖をまくり上げることもしていない。折りたたみ式のテーブルに載せられているコップは両方共空だが、その脇にある麦茶の2リットルペットボトルを開けたのはほぼ朱雀だ。

「どうしてと言われてもだな……」

思案しつつ、文庫本を閉じる。思い返せば、玄武はあまり暑さに対する不満を口に出したことがない。決して暑さに強いわけではないのだが。

「……まあ、暑いと言ったところで、どうにかなるもんじゃねぇしな」
「それはそうだけどよ。もっとこう、夏らしい顔しろよ」
「なんだそりゃ」
「こう……アイス食いてえ!とかそういう面だよ」
「そりゃ今のおまえの面だろ、朱雀」

俺をアイスの言い訳にするなよ、と笑って閉じた文庫本をもう一度開いた。玄武の思った通り、朱雀はちぇ、と言いながら立ち上がり、階下の台所へと歩んでいく。扉の向こうから、足音と小さくにゃこの声が聞こえた。朱雀とべったりのにゃこも、夏は流石にあまり寄ってこないらしい。2人で玄関をくぐった際に飛び出してから、玄武はその姿を見ていない。
やがてまた足音が近づき、朱雀がアイスの袋を開けながら戻ってきた。ソーダ味の、中央で割るタイプのアイスバーだ。

「ほれ」
「ありがとな」

差し出されたそれを、素直に受け取る。知り合った直後は、この家で与えられる何もが申し訳なくて仕方がなかったが、ゆっくりと受け入れていった。申し訳ないと謙遜することが礼に反するのだと、玄武はここで学んだ。
がりがり、と音を立ててアイスを噛み砕いていく朱雀を視界の端に留めながら、自分のそれを一口齧る。口内に広がる冷たさをすぐに飲み込んでしまうのは惜しくて、じんわりと溶かしていく。その隙に断面に沿って雫が落ちかけたので、舌で手元からなぞった。

「……」

溶けきった甘い液体を飲み干す。それと共に気温より熱そうな視線を感じて、顔を上げる。朱雀のアイスは、もうただの棒のみになっていた。

「……どうした朱雀」

呆けた面してんぞ、と言いながら玄武はもう一口アイスを齧った。視線のせいか、早く食べてしまった方がいいように感じられて、残りは味わうよりも先に噛み砕く。残った棒は、とりあえず空のグラスに入れておいた。
朱雀はというと、玄武曰く呆けた面のままのろのろと立ち上がり、テーブルと玄武の間に割り込む。

「おい朱雀、近えぞ」
「玄武よお」

後で風呂入って、アイス奢ってやるから、いいよな?
と、朱雀は言った。口内に残っていた冷たさは、すぐに消えた。




****




ぼんやりと宙を見つめる。
今の玄武には眼鏡がないので、視界は不明瞭だ。更にここが風呂場で、湯気で満たされているとなればもう、視力なぞ頼っても仕方がない。そう思って、瞼を閉じた。

「おい、寝るな寝るな」

ぺち、と柔らかく朱雀の掌が玄武の頬を叩いた。宣言通り玄武を風呂へと運んで、自身は熱いからと湯船に浸かるのを拒否している。

「……寝ねぇよ」

朱雀はよく風呂に浸かりながら寝てしまうらしいが、玄武にそんな経験はない。
単身用アパートや一般家庭の風呂桶のサイズでは、くつろぐには程遠いからだ。足を伸ばしてゆったり浸かる……なんて経験は、近年銭湯くらいでしかやったことがない。
そういえば、と玄武は思い出す。銭湯に最後に行ったのはいつだったか、もうわからない、と。

「今にも寝るって顔してよく言うぜ」
「俺がこの風呂で寝こけたことなんてねぇだろ」

銭湯に行かなくなった理由は、アイドルを始めたからか、朱雀とこうなったからかどちらなのだろう。
暑さか熱さか、玄武の思考にはぼんやりと霞がかかっている。眠くはないが、考えるのも身体を動かすのも億劫だった。

「朱雀」

湯の中から左手を出して、ぼんやりと見える赤色へと伸ばす。ふらふらと動かしていると、手首を掴まれた。とても熱かった。

「どうした、上がんのか」
「もう十分温まったしな」
「外もあっちいけどな」
「そりゃまた別だ。……それにお前の方が限界だろ」

ぐ、と朱雀が図星を指された気配を感じる。元々風呂場に長く留まる質ではないのは、予想していたし実際目にしている。それでも自分を1人にしないのは、責任を感じているのだろうか。

「はは、ほら、朱雀」
「わーってるよ」

別にそうしてもらいたい訳ではないのだ、と玄武は自分に言い訳をする。
ただそれを受け入れれば、ようやく朱雀の顔が見えるようになるだけだ、と。

「よ……っと」

右腕も湯から出して少し待てば、朱雀が抱き上げてくれる。
こんな大男がやられることじゃねぇなあ、と毎度自嘲するのだが、嫌いではない。朱雀の方がどう思っているかは、わからないが。

「お前、ちょっと重くなったよな」
「……まあ、筋トレしてるからな」
「だよなあ」

朱雀が器用に脱衣所への扉を開ける。吹き込む空気は、今までとはまた違った暑さだ。
降ろせ、と玄武が朱雀の鎖骨を叩く。が、朱雀はそのまま動かない。
表情を伺おうと横顔を見つめるが、長く浸かり過ぎたのかピントがうまく合わず、くらりとする。

「朱雀」
「あー……わりい」

のろのろとした動作で、やっと足が床につく。見下ろす頭からは、何を考えているのかはわからない。

「お前が何考えてるのかはこの際置いておいて……このままじゃ風邪引くぞ」
「風邪に俺が負けるわけねぇだろ?」
「ま、そうかもな」

何を考えているのかは分からないが、分かることはある。

「まだ熱くなりそうだな」

太陽がいなくなるのは、まだ遠い。