吸血鬼を飼っている
硲先生が吸血鬼なパラレルです。
吸血鬼、って知ってる?
そうそう、あの血を吸う、映画やなんかでよくあるアレだよ。太陽や十字架、ニンニクに弱かったりする、ね。
実は、誰にも言えないことだけれど、ウチにはその、吸血鬼がいる。
『山下くん、大変だ』
通話ボタンを押すなり耳に響いたのは、そんな切羽詰まった声。これがウチにいる吸血鬼。名前は硲道夫。俺ははざまさんと呼んでいる。
「どしたの、はざまさん」
対する俺は、いつもどおりの声で返事をしながら、駅のホームで列車を待っている最中。今日はそこそこに残業して大分遅くなったのだが、この時間でもホームはほどほどに混んでいて、これじゃあ座れないかもなぁなんて考える。通過する駅は片手ほどだから、まあギリギリ立ちっぱなしも苦ではないけれど、出来ることならやっぱり座りたい。
『在庫がない』
在庫、と口の中で繰り返す。俺のウチは物が凄く多い方だとは思わないが『在庫』と称するほど、特定のものを買い置きしておくような習性はない。……いや、なかったと言うのが正しいか。はざまさんがウチに同居するようになって、1つだけ大量に買っておくようになった。
「え、もうなかったですっけ」
トマトジュース、と呟くと、その言葉に反応したのか、携帯の向こうで喉が鳴ったような音がした。
はざまさんは吸血鬼だが、ありがたいことに主食はトマトジュースだ。いや、本来は勿論血なのだけれど、なんかまあそれでもイケるらしい。はざまさん曰く「現代社会で穏便に生活するために我々が見つけた共存点」だそうな。
『通常通りの配分であれば、こんな事にはならなかったのだが……。ここ最近はその、運動量が……』
「……そうっす、ね」
運動量。
……ええ、はい、所謂夜の運動ですね。トマトジュースだけじゃ、完全に血の代替品にはならない。最低でも月一程度は、とあるモノを摂取する必要がある。そうじゃないと最悪の場合死に至る。なんかこれホント、AVとかエロマンガの設定みたいだよね。あまりにもそんな感じなので、俺も最初は信じられなかった。
『在庫を見誤ったのは私の責任だ。君に迷惑をかける結果になってすまない』
「いや別に、いいですよそれくらい」
でも実際、俺と暮らし始めた当初のはざまさんはそのことを黙ってトマトジュースだけを飲んでいた結果、ぶっ倒れたけれど、半信半疑で試してみたらすぐ回復した。そこまで我慢しなくても、はざまさんは見た目がいいので、こんなおっさん引っ掛けなくても何とかなりそうなものだけれど、この人はそんなイキモノのくせに堅物で真面目すぎて、更に人間が好きなようで、血を吸うことも代替品を摂取するためにナンパをすることも、そういうお店に行くことも出来なかった。俺に普段より更に真っ白な顔で頭を下げた時も、それは嘘じゃないことがありありと伝わってきた。その最終手段一回で終わっとけばいいのに、なんだかんだと今でも一緒にいるのは、もう人助けだとかそういう次元じゃないことを、俺もはざまさんも理解している。
……言い訳にしか聞こえないが、別に俺はゲイじゃない。はずだ。うん。
『もっと早く気がつけば私が買いに行けたんだが……』
俺のウチの近くでトマトジュースが買える店は、コンビニが2軒と、小さなスーパー、あとドラッグストア。もうこの時間だとコンビニ以外は辿り着く頃には閉店時間になってしまう。吸血鬼なはざまさんは、別に日光で灰になったりはしないけれど、あまり昼間の活動は得意じゃないため、自然と夜型の生活をしている。なので、はざまさんは自力でトマトジュースが調達できない。コンビニ行けばいい、そう思うところだが、これには吸血鬼の習性的にムリなのだ。
吸血鬼の習性、血を飲むだとか銀に弱いとかよりは随分とマイナーな、俺も初めて知ったもの。
『吸血鬼は、招かれないと建物に入ることが出来ない』
この招かれる、というのははざまさん曰く「自動ドア形式で、店員が客の姿を確認次第『いらっしゃいませ』と言ってくれる店なら問題ない」らしい。残念なことに、俺のウチから徒歩圏内のコンビニの扉はどちらも自動ドアじゃないのでのっけから躓いている。そういう店でも、時々客の入りが激しい時間帯だと、扉が開けっ放しになっていることもあるが、それを狙うのはなかなか難しい。周りでそれを待っていると、時間も相まって最悪通報されるかもしれない。
はざまさんのことだから、きっと職質でもされたら、くそ真面目に吸血鬼であることを言うんだろう。困る警察のおにーさん(ウチの周りを管轄してるのは、はざまさんよりよっぽど尖そうな歯を持ったおにーさんだ)が目に浮かぶ。
「とりあえず明日分くらいあればいい?」
『ああ、すまない』
携帯を肩で挟んで、財布の中身を確かめる。別にトマトジュースを数本買ったところで、大して懐は傷まない。はざまさんはすぐ立て替えたお金を返してくれるし。いや、返してくれるどころか「手間賃だ」なんてお釣りをくれたりする。あのあまり金銭欲がないところは、はざまさんのいいところだと勝手に俺は思っていたりする。吸血鬼はわりとみんなそうらしいけど。
「もうそろそろ電車くるから切りますね。もうちょっと我慢しててください」
『分かった。気をつけて帰ってきてくれ、山下くん』
「大丈夫ですよ」
じゃあ、と言って電源ボタンを押す。通話時間をぼーっと見つめている間に電車はホームに滑りこんできた。
懸念した通り電車内はわりと混んでいて、男一人では微妙に座りにくい程度にしか座席の空きがなかったので、俺はつり革を掴んで溜息を吐く。
がたごとがたごとと電車は揺れて、明かりの少なくなった街を滑って進んでいく。
(この暗闇の中に、はざまさんみたいな吸血鬼が紛れているのかね)
もしかしたらこの電車の中に乗っているのかもしれないけど。まあ、そんなもしかしたらのことなんて考えても、暇つぶしにしかならない。俺がそうやってがたごと揺れて進んでいる間に、はざまさんは何をしているのだろう。無駄なエネルギーを使わないように正座して微動だにしてないのかもしれない。一回そんなはざまさんに驚いて、盛大に慌ててしまったことがある。あの時、取り乱す俺に肩を掴まれながら、はざまさんはほんの少し口元を綻ばせていた気がする。
「……ん」
背広の中の携帯が数回振動して止まる。どうせ迷惑メールだろうと思いつつも確認すると、それははざまさんからだった。
『駅に向かって歩いている』
それだけのメールに、俺は息を吐く。ため息じゃない。何かよく分からないけれど、溜息じゃないのは確かだ。
返信しようとメールを作成しかけて、止める。別にメールするようなことじゃないな、これは。携帯を背広に戻して、更に明かりの少なくなった街を眺める。もうすぐ、着く。
(腹減ったな……)
ごとん、と少し大きく揺れて電車が止まる。ゆるい人の波に乗ってホームと改札を通りぬけ、売店でトマトジュースを三本買った。駅の敷地から出ると、辺りは電灯と電灯の間が開きすぎていて、本当に暗い。がさがさとビニール袋を揺らしながら、覚えてしまった帰路を歩く。数台の車とすれ違った頃、向こう側から白い影が歩いてくるのが見えた。はざまさんだ。
「はざまさん」
引っさげていたビニール袋を掲げると、ほんの少し速度を上げて俺の方へとやってくる。
「山下くん、お帰り」
「どうも。はざまさんそんなに腹減ってたの?」
「……そう、だな。恐らく……」
「それとも」
吸血鬼ははざまさんの方なのに、カッターシャツから覗く白い首筋が美味しそうに見える時がある。例えば、今とか。
「寂しかった?」
一度飛び出してしまえば、俺が扉を開けない限り、この人はウチに入れない。それでも待つことをしないのは、そういうことなのかな、なんて考える。
「……ああ、うん。そうだな」
「そっか。俺もですよ」
やっぱりトマトジュースは買いだめしなくていいかな、と思った。