白黒的絡繰機譚

初心の人

「もしかしてキスは初めて?」

重なっていた唇が離れて、少し緩んだ顔を見下ろして言ったのがこの言葉。
自分で言っといて「流石にないでしょそれは」と突っ込む。だってこの人いくつだって話だよ。俺の2つ上ですね、ええ。
でもこの人が、誰かとキスしてる姿なんて、全く想像ができない。

「キス。口吻……この場合の定義は」
「まあ親兄弟抜き?」
「ふむ……」

自分で聞いといてアレだけど、あるって言われたら凹むかも。いや、ホントあるのが普通なんだけどさ。
どうだろ、幼稚園の時……とか言うかね。初恋のあの子と……みたいな。微笑ましいね。
……いや、やっぱこれでもなんかこう「ああー」ってなるかも。うわ、大丈夫か俺。ちょっとこの人に変なイメージ持ち過ぎじゃない?

「あー……そんな真剣に考えなくていいですよ」

なんか、完全にタイミング見失ったよなこれ。冗談ですよー、なんて言って茶化したところで、それは回答を先送りにするだけ。寧ろ忘れた頃にいきなり答え合わせされて未来の俺のハートがやられかねない。
まあ俺の自業自得ですけど。それにしてもはざまさん考え過ぎじゃない?

「いや、これはしっかりと把握しておくべきことだ」
「そうっすか……」

あ、もうこれ完全に駄目なやつ。はざまさんの目、仕事とか掃除とかしてる時のやつだ。
完全トリップしてて俺が取り残されてる。このほっぺたに添えたままの右手とかどうすりゃいいんですかね。

「……山下くん」
「はい?」

まっすぐに俺を見てくる。ほんと眩しいよアンタ。

「君だ」
「……はい?」

え、ほんとに?恐ろしいことに、この人はそういう嘘を吐かない。つまり100%本当ってことになる。え、嘘。

「い、今のが」
「いや」
「ええ?!」

俺なのにさっきのじゃないんですか?!
まさか飲んだ俺がなにかしたとかそういう?!でもそれならるいや、他のメンバーから何も言われてないはずがない。言えないような酷いやつとか?!

「山下くん?」
「はいっ」

あ、やべ声ちょっと上ずった。

「確か、交際を始めてすぐだったと思う」

今の俺、どんな顔してんだろ。

「君が、私の夢の中で」
「え」

心臓が、止まるかと思った。
さっきまでの焦りや恐怖じゃなくて、他のものが、心臓を止めようとした。
……32歳に30歳がどんなイメージ持ってるの、なんて自嘲したけどさ。

「……じゃあ現実でも非現実でも俺だけ?」

この人には敵わない。