白黒的絡繰機譚

やがて欠ける望月

「奈落の半月は程遠く」の前日譚。世界観に合わせて勝手な和名をつけています。

大して珍しいことではない。
天気が崩れ、泥濘んだ地面に足を取られ横転し落下。折れてはいないがろくに歩けぬ片足を引き摺って、どうにか雨風を凌げそうな横穴に滑り込んだ男が一人いた。じっとりと湿ったそこで、男は溜息を吐く。運んでいた荷物は無事なのは幸いだが、もう動けそうにない。ちら、と荷物を見る。抱える程度の壺の中身は分からない。何も分からないが、あの必死さ――生きているのが不思議な大怪我を負った老人が「どうかこれを届けてくれ」と訴えていた――には頷かざるを得なかった。一体どうしてあのような怪我を負って男の村近くまで這ってきたのかは定かではないが、まさかこの壺のせいではなかろうな、と男は一瞬考えた。このようなことを考えてしまうのは恐らく身体が冷えて動かないからだろう。襲いくる衝動に抗えず男は目を閉じた。耳には雨音と、規則的な物音が届いている。遠くなる意識の中、物音の正体に気づく。
――ああ、これは足音だ。




生まれ落ちた瞬間から他者を拒絶する身体を持った赤子がいた。他者との接触で泣き出し、同じ部屋に他人がいるだけで熱を出す。生を拒絶しているとしか思えないその赤子を救ったのは、旅の薬師であった。「夢枕に立った御仏の言葉に従い薬を作り、此処へと赴いた」と嘯く薬師の差し出した薬を舐めた赤子は泣くのを止め、それまで犬猫のように皿から舐めることしかできなかった母の乳を吸った。そうしてどうにか生き延び成長した赤子は、薬師の勧めに従い独り山で暮らすこととなった。何時の日か正常な身体となる日を夢見て、独り山で届けられる薬を飲んでいる。

「……それが髏玕ろうかん 、お前だって言うのか?」
「そうだ。……信じられないか、輪慈りんじ
「そりゃ……」

山中で意識を失った男・輪慈は目が覚めると小屋の中にいた。自身が助けられたことは分かったが、家主の姿は見えずどうしたものかと思案していたところ、外から若い男の声で「目が覚めたのか」と問われた。何故かそのまま中へ入ってくる様子なく声だけかけてくる状況に疑問を発したところ、語られたのが先程の身の上話である。

「だって、お前は俺を自分の住処まで運んだんだろう? それができている時点で……」
「……」

髏玕からの返事はない。
暫しの沈黙の後かた、戸から音がした。どうやら髏玕が手を掛けているようだが、開く気配はない。

「ここを開けて、分かるのが、怖い」
「……」
「確かにお前を殆ど引き摺って運んだが、俺は本当に平気だったのか? お前を見た時死体じゃないかと思ったから、それで身体が誤認しただけじゃないか? 寝かせて、投げつけるように布団をかけて……それからずっと、家に入れなかった」

淡々とした、震えをなんとか押さえつけているような声であった。
それに堪らなくなり、輪慈はまだ重い身体で起き上がる。ふらりふらりと戸の前まで歩み、手を掛けた。

「止めろ……!」

気付いた髏玕が戸を押さえる。

「大丈夫だ」
「無責任なことを言うな!」

髏玕が訴えるように、輪慈の言葉に根拠は薄い。それでも、輪慈に引く選択肢は存在していなかった。

「髏玕、俺だって怖いんだよ。……俺はまだ、お前が人かそうでないのかも分からない」
「何言って」
「馬鹿なことを言ってる自覚はある。それでも姿が見えない相手ってのは、どうしても怖いよ」

お前が姿が見える人が怖いようにさ、と輪慈は続ける。

「でも俺は、ここを開けてお前と向き合いたいと思ってる。例え取って食われるとしても、今こうして生きているのは事実だしな」
「……」
「勿論、俺の世迷言とお前の身体じゃ、同列に語るのも烏滸がましいけど……」

戸の向こうから言葉はない。沈黙の中、輪慈は髏玕は一体どのような表情をしているのだろう、と思った。

「……輪慈」

子供でも老人でもなさそうな、恐らく輪慈と大して変わらない印象の声が沈黙を破る。ぽつり、と零すようなそれは不安が滲んでいる。

「俺が本当に怖いのは、お前の不安と多分、似てる。……人との接し方なんて分からない。別に感謝されたくてやった訳じゃない……筈だが、仇を返されるのが、怖い」
「そうか」
「薬師様の手紙以外に誰とも関わらなくて……もう親の顔も忘れた。もう少しで治るらしいが、治ったところで俺は、人として生きていけるんだろうか」
「髏玕」

輪慈が戸を引く。予想よりずっと軽い、押さえつけられていないそれはいとも簡単に開いた。
そこに立っていたのは、まるで子どものような表情を浮かべた普通の、極々普通の青年であった。着古した少し丈の合っていない着物を身に着けた髏玕は、目元を赤くしている。

「髏玕」

もう一度輪慈は名前を呼ぶ。そして、固く握りしめられた髏玕の手を取った。まだ熱が下がりきっていないだろう身には少々冷たかったが、間違いなく人の手のひらである。

「大丈夫か?」
「ああ……。温かい、な」
「そりゃまだ熱がある……から……」

ぐら、と輪慈の身体が揺れる。倒れそうになったそれを髏玕が抱きとめるように支える。その腕の力は強くなったり頼りなくなったり、本当に他人との接触に慣れていないのが伝わってくるので、輪慈はふ、と笑った。

「……下がるまで、ここに居たらいい」
「そうさせてもらう……」

輪慈は目を閉じる。意識はすぐに落ちていく。

「熱が下がっても、居てくれていい……」

髏玕の声は輪慈に届かなかったが、その願いは成就する。
――彼等は永遠に、共に。




*****




「まさか受取人がお前だとはな」
「偶然……必然とか言うやつか」

輪慈の熱が引き、二人で探しに来たのはあの日落としたままになっていた荷物であった。変わらず横穴――髏玕が荷物を取りに行く際に使っている――にひっそりとあるその壺は、今になって輪慈の目に酷く禍々しいものに映った。いくら瀕死の老人に縋るように頼まれたとはいえ、こんなものを背負って短くない旅路をよく歩けたものだと感心する。
髏玕はというと、そのようなものを少しも感じていないように壺の前に膝をつき、口の封を開けていた。

「……それで、中身は合ってるのか……?」

震える輪慈の声色に気づいているのかいないのか、髏玕は事も無げに壺の中へ指を突き入れそれを舐め取る。
壺は粘度のある、赤黒い液体で満たされているようだった。封を切る前より禍々しい気配が輪慈の背を走っていく。薬というより、毒であると言われた方が納得できるような代物だ。

「ああ。……これが、最後なんだ」
「最後?」

封をし直し、髏玕が壺を抱える。その表情は少し綻んでいた。

「これを飲み終わったら、俺は人里に行けると前回の手紙に書いてあった。……その時は輪慈、お前と一緒に行きたい」
「……」

ゆっくり、ぎこちなく輪慈は頷いた。
髏玕の願いを叶えてやりたいと思うが、それ以上にえも知れぬ不安が背を撫で続けている。
だがそれでも――それでも、髏玕を独りにするという選択肢はなかったのだった。