白黒的絡繰機譚

喪失願望

記憶喪失になれたらいい。
そう、思うことがある。違う自分になりたいのではなく、ただ一つの記憶を消したいというだけで。このまま稼働し続けたのなら、いつかは上書きされて消えてしまうかもしれない、他人から見ればとても些細な記憶だ。それでも、俺自身にとっては表示されるバイト数よりもずっと大きくて重い、そんな記憶だ。

「――さん、ホーネットマンさん!」
「あ、プラント……」

顔を上げる。ああ、そうかもう休憩時間は終わっていた。椅子に座って動かない俺を、必死に揺さぶっていた君に要らぬ心配をかけてしまった。
大きくて透き通った瞳が、俺を見ている。――本当は、これだけで満足しなければいけないのに。なのに俺は、喜ぶと同時にまた、記憶喪失になりたくなる。

「大丈夫ですか、あの……どこか、悪いところが」
「大丈夫だ。君が心配するようなことは、何もない。本当に」
「でも……」

納得がいかないのを隠しきれてない君に気がつかないふりをして、俺は立ち上がる。
怖がらせてしまっただろうか。悲しくさせてしまっただろうか。嫌いになっただろうか。

「仕事が終わったら、研究所に行くよ」
「そう、ですか」

だからもう何も言うな、という体の俺は、君からすれば冷たい、嫌な奴だろう。実際そうだ。俺は嫌な奴だ。自分のために、君と距離を取る。
足を踏み出して、仕事に戻る。淡々と終了までこなして、急ぎ足で帰ればいい。明日になってもし君が声をかけてきたら、異常はなにもなかったと言えばいい。研究所になんて、行ってもいないのに。

「……!……ああ、大丈夫です。平気です。だって貴方は」

記憶喪失になれたらいい。記憶と引き換えに、自由になれたらいい。嫌な奴ではない俺に、なれたらいい。すべて空想の、たらればだ。俺はそこまでして、電子頭脳に鮮明に残された数秒の記憶を、消してしまいたい。
君と出会った、最初の一瞬。俺はそれを、忘れてしまいたい。君が俺を見て、一瞬怯えたような表情をしたことを。名乗った時に、安堵した表情を。そして何よりも、君のそれを見て、君のことを好きになってしまった、俺のことを。