白黒的絡繰機譚

平淡の日

ちらり、と夏侯覇は竹簡から目線を外した。
その先では、彼をこの竹簡の山に向かわせた張本人がいる。
ほんの少し前まで、その視線が外れる事を目聡く注意してきた筈のその人は、二度ほど前に視線を向けた時から夢という空想世界を彷徨うようになってしまっていた。
ふわり、と少し乾いた筆を空中に走らせて、夏侯覇は思案する。視線の先でかくり、と首が揺れた。しかし、現実に戻ってくる気配はない。よほど深い眠りの中なのだろう。もしかしたら、夢すらも見ていないのかもしれない。

「郭淮」

小さく名前を呼んでみる。届いたような気配はない。
薄い肩を揺すってみた方が良いのかどうかを思案する。それが親切で正しい行為だとは思ったが、椅子から立ち上がって動く気にはならなかった。
その理由としては、恐らく遅々として進んでいない竹簡の内容を見られたくないのが半分、珍しい居眠りの原因が己であるのが半分だ。
後者の理由は、きっと口にしたら前者の事よりも怒られるのだろうと夏侯覇は思った。誰が聞いている訳でもなし、と言ったところで、納得してはくれないのだ。そういう人だと、よくよく知っている。それが良いのだと、自覚もある。それでも時々くらいは、羞恥の仮面を脱ぎ捨ててくれてもいいとは思うのだが。

「……」

しげしげと、眠る郭淮を見つめる。着物と髪の毛の隙間から見える肌は、変わらず青白い。
これがほんの少しでも人並みに近づく事を事細かに知っているのは、きっと自分くらいなのだろうと思った。
――乾いてしまった筆を、硯に押し付ける。含む墨は、残っていない。
息を小さく吐いて、渋々立ち上がった。擦り足そうにも、水差しに水もない。手に取って、ゆるゆると歩みを進める。
その物音に気がついたのか、郭淮の薄い睫毛がふる、と揺れた。

「――……どこへ、行かれるおつもりで」
「い、いやいやいや! 墨がなくなったから、水を汲みに」
「ごほっ……本当ですか?」
「おま……っ、なら硯見てみろよ、空だから」
「そこまで疑っている訳ではありませんよ。……それならとうに逃げ出しておられる筈だ」
「まあ……」
「貴方と違って、寝ていなかったなどと言うつもりはないですよ。自分の事ながら、情けない」
「それ、いつの話だよ……。ま、たまには良いんじゃね?」
「たまには、ならばですが」
「?」
「……何でもないですよ。この時間にする話では、ないですから。ほら、水を汲むならば、急がれた方が。終わりませんよ」
「はーい、はい」

やや速足で部屋を出ていく夏侯覇の姿を見送って、変な体勢でいたせいで凝り固まった身体を伸ばす。ぱきぱき、と嫌な音がする。歳は取りたくないものだ、と溜息を吐いた。

「今晩も来ると言った癖に」

そして明日も。明後日も。そんな事をされたら眠れない。
恐らく訴えれば藪蛇となるので、絶対に言うものかと心に決めて、郭淮はもう一度瞼を閉じた。