白黒的絡繰機譚

河を渡る前に

数秒視線が宙を彷徨い、最終的に俺へと向く。
そして無表情で口だけを動かし、三途さんは言った。

「死んだら、ちゃんと会いに来るよ」
「……三途さんの話は、いつでも前提がそれで困ります」
「だって人間、死ぬ時はあっけなく死んでしまうんだ。備えをしておくのは悪い事じゃないだろ?」

冷たい三途さんの右手が、俺の首にかかった。何がしたいのか、何が言いたいのかは分かる。このまま三途さんに首を絞められて死んでしまうというあっけない結末もないとは言い切れない。けど、俺がそんな簡単にこの人に殺される訳がない。多分三途さんもそれは分かっている筈だ。

「首を絞めて、俺が死ぬと思ってるんですか」
「いや、無理だろうね。キミは俺より身体が丈夫だろうしね」
「別に三途さん身体弱くないでしょう」
「強くもない」
「……」

この人と会話をすると、どんどんと流されてしまいそうになる。
そしてこの人と会話をするのは、何時も部活の後、俺と三途さんのどちらかが鍵当番の日に良く行われた。それ以外でもポツポツと、三途さんの気が向いた時にはあった。俺の都合は何時でも殆ど関係がない。それ以外では廊下ですれ違った時に挨拶をする程度で、大して仲が良い訳でもないと思う。学年が違うから、そんなもんなんだろうが。
けれど、鍵若しくは気まぐれという条件が満たされれば、何故かこうやって会話をする。大体は今日みたいに宙に浮いた様な現実味のない会話だ。お互いのプライベートを探る様な会話はした事がない。今更する必要もないか、と俺は思っている。三途さんも多分同じだろう。

「……」

三途さんの口が止まる。今日の話題は尽きたのだろうか。

「帰りますか」
「もう少ししたらね」
「そうですか」
「帰っても良いんだよ」
「……」

帰っても良い、その申し出はありがたい。あんまり遅くなっても親が心配するだけだ。英語と数学の予習をしないといけないし、そうだ帰らなきゃいけないんだと今更ながら時間の無さに焦る。
がたりとパイプ椅子から立ち上がると、鞄を抱える。横で同じようにパイプ椅子に座っている三途さんは動かない。

「気をつけて」
「……」
「結構暗くなってしまったから、気をつけないとね」
「そうですね……」

確かに窓の外は部活が終わった時よりも更に赤色の割合が減って、夜に近くなっている。そんなに家が近い訳でもないから、着く頃にはもう日は完全に隠れてしまっているだろう。

「……帰らないのかい」
「帰ります」
「じゃあまた明日、だ」

時間の所為だろうか、三途さんは早く俺に帰って欲しい様だ。こんな事は初めてだった。三途さんは何時も、俺が帰ろうとするのを引きとめる。

『幽谷が帰ると、一人になるじゃないか』

そう何時も言って、俺を引きとめた。じゃあ一緒に帰りますか、と俺が誘うと家の方向が違うからと断られた。良く分からないけれど、この人を一人にする事は躊躇われて、ずるずると帰宅時間を遅らせる羽目になった。

「今日はどうしたんですか」
「どうした……って、何か変だったかな?」
「……」

横顔が、少し笑っている。ああ、この人はわざとやっているんだな。そう思うと、どっと身体が重くなった。

「幽谷?」

わざとだから、俺が溜息を吐いた原因が分からない訳ない筈なのに、どうしてそんなキョトンとした様な顔をするんだろう。この人は、分からない。まともな会話をしたのは数えるほどしかないし、先輩らしいことをしてもらったこともない。部活外での付き合いもない。ないない尽くしだ。
俺の方を向きもしない三途さんの横顔を見つめる。今日は一人になりたいんだろうか。でもそれだったら、わざわざ――そう、わざわざ、八墓さんから鍵当番を譲り受ける必要性は無かった筈だ。何か言いたそうに口を尖らせた八墓さんを黙殺してまで、この時間を作る必要性はあったのだろうか。俺には分からない。やはりないない尽くしだ。

「三途さん」

ないない尽くしの俺は、この人に流されっぱなしだ。流されっぱなしは、あまり気分がよくない。この時間が嫌だった訳じゃない。俺だけが分からないのが嫌なだけだ。

「帰りませんか、一緒に」

だから、それを打破するために行動を起こすことにした。多分三途さんも、状況を変えるつもりだったのだとは思う。俺には何を変えたかったのかはまだ分からない。

「校門までしか、一緒じゃないけどね」
「それでも良いです。帰りましょう。駄目ですか?」
「後輩の頼みを、断る程駄目な先輩じゃないつもりだからね。……良いよ、帰ろうか幽谷」

やっと俺の顔を見た三途さんは、なんとも言えない表情をしていた。その下で一体何を思っているのかを知る事が、校門までの短い時間でできるだろうか?分からないけれど、今更後に引けない。
三途さんが手で遊ばせていた鍵を取る。あ、と小さく声を上げたけれど、それ以上は特に何もなかった。

「閉めましょう。いい加減怒られるかもしれませんし」
「そうだね。幽谷がそれを返しに行ってくれるのかい」
「……」

はい、と答えそうになった。が、それが声になる寸前で思いとどまる。多分、一人で返しに行ったら、三途さんは一人で先に帰ってしまう。そんな気がした。

「……一緒に行きましょう」

少し小さくなってしまった声でそう言うと、三途さんは目を細めた。

「いいよ」

カチャリと鍵を閉めて、職員室へと向かう。ポツポツとだけれど、まだいくつかの教室は明るい。補修だろうか。
職員室に入ると、まだ監督は帰っていなかった。俺達を見るとにっこり笑って、

「今更ですけど……あまり遅くまで残っていては、駄目ですよ」

とだけ言って、鍵を受け取った。監督は知っていたのか、と驚いた。よくよく考えれば当たり前の事ではあったのだけれど、誰かが知っているなどとは今まで思いもしなかった。

「……」
「……」

無言で廊下を歩く。一体何と切りだして、何と繋げるべきなのか、さっぱり分からない。
ちらちらと不審者の様に横顔を窺う。ふいに、三途さんの口が動いた。

「幽谷は」
「……っ、はい」

俺の方をちらりと見て、三途さんは少し顔を綻ばせる。

「所謂、見えてしまう人だ」
「……ええ、そうですけど」

それは別に、この学校なら珍しいことでもなく、割と普通の事だ。

「俺は見えない方だけど……『あっち』を、見た事はある」

三途さんの声は、何時もと同じでとても淡々としている。それは階段を下りる歩調と同じ様に感じられた。

「見たんですか」
「一度だけね……。それからというもの、俺はどっちが自分の世界なのかよく分からない」

たたたっ、と早足で三途さんが階段をかけ下りる。下から俺を見上げる三途さんと視線を合わせたまま、俺は足を止めてしまった。

「幽谷の目から見て、俺はどっちかな」
「……」
「クラスメートや、色んな人に聞いてみたけどね……、全員見当はずれな事を言うんだ。悪霊が取りついてるとか、守護霊がどうとか、ね。俺は俺がどっちなのか聞いてるだけなのに」
「……」
「でも幽谷、君ならそんな事は言わないだろ?君はちゃんと本当に『見えて』いるんだから」
「……」
「ねぇ、幽谷」

語尾が震える、三途さんの声。

「三途さん」

同じく震えてしまった、俺の声。

「もし俺が『あっち』だと答えたら、三途さんは行ってしまうんですか」

『死んだら、会いに来るよ』とこの人は言った。『人間、死ぬ時はあっけなく死んでしまう』とも言った。
勿論――そう勿論、三途さんは死んでなんかいない。ちゃんと『こっち』にいる。それは分かってる。けれど、この数段の階段が俺と三途さんの間にどうしようもない隔てを作っている様に思えて仕方がなかった。死んでなんかいないのに、俺の一言がこの人の生死を決定してしまう様な気がして、怖かった。今すぐ階段を駆け降りるべきなのに、それが出来なかった。

「行くも何も……君がそう言ったら、俺は最初からそこにいるんだよ」
「嫌です」
「……幽谷?」
「それだけは嫌です」
「じゃあ『こっち』にいると、言えば良い」
「嫌です。俺が三途さんの居場所を決めるなんて、出来ません」
「……じゃあ俺は、どうすれば良いかな」

そんなの、俺は知らない。知りたくない。

「なんで、俺に決めさせるんですか」

確かに、俺は見える。見えるけど、それはこの学校では本当に珍しいことでは無くて、俺以外にも見える人は沢山いる。確かに見当違いなことしか言えない自称見える人や、見えるつもりの人も沢山いる。けど、けど、けど!

「幽谷が、良いんだ」

じじじ、と音を立てて蛍光灯の明かりが点滅する。その所為で、三途さんの表情はちゃんと見えなかった。

「どうしてですか」

見えなくて良かったのかもしれないと思った。見えない方が幸せなのかもしれないからだ。

「聞きたい?」
「聞きたいです」
「聞かない方が良いと思う」
「それでも、聞きたいです」
「……幽谷、君は……まったく、13歳とは思えないな」
「三途さんこそ、年上とは思えませんね」

少しだけ、空気が緩む。それはさっきまでいた部室の空気に似ていた。

「幽谷、君は――」

三途さんのあまり動かない表情が、くしゃりと歪む。初めてみるそれは、何というか――生きているみたいだった。

「俺が恋愛感情を持っていると言ったら、困るかな」

数秒の沈黙が流れる。それは三途さんが吐いた溜息で終わった。
俺をくしゃりと歪んだままの顔と悲しそうな目で見つめて、それを逸らすと追ってくるなという様に走り出す。

「三途さんっ!」

足が動かない。何かに掴まれているような感触に、背筋が冷たくなる。
動け、今動かないでどうするんだ。掴んでいる何かを引きちぎるように動かして、階段を駆け降りる。靴を履き替える時間も惜しくて、そのまま玄関を飛び出す。

「三途さん……!」

校門のコンクリートにもたれかかる様にして、三途さんは小さくなっていた。
伏せられているから、表情は分からない。

「三途さん」
「……幽谷、どうして追い掛けて来たの」
「駄目でしたか」
「……」
「三途さん、俺は」

答えていない質問は二つ。どちらも、ちゃんと答えなければいけない。でも、先に答えなければいけないのは、こちらだと思う。

「困りません」

びくり、と三途さんの肩が震える。けれど、伏せられた顔が上げられる事は無い。

「……そっか、うん。そうか……」
「三途さん」
「ふふ……」

笑い声の筈なのに、三途さんが泣いている様な気がした。

「言っておきますけど、三途さんは『こっち』側です。だから、俺は冥土の土産に言っている訳じゃ、無いです。後、同情でもないです。それだけは、勘違いしないでください」

膝を付く。汚れるけれど、今はどうでも良い。

「駄目ですか」
「……」
「これくらいじゃ、駄目ですか」

なんとなく、分かった。この人は、寄りかかる場所を探していたんだ。どちらか分からない自分を、どちらかに引きとめてくれる人を、探していたんだ。

「三途さん」
「……幽谷」
「はい」
「君は、俺に生きていて欲しい?」
「当たり前です」
「そう。じゃあ、死なないで欲しい?」
「当然です」
「じゃあ、俺は幽谷の為に生き続けて、死なないようにするけど、良いかな」

『俺は、自分じゃ決めれないんだ。何にもね』

何時だったか、三途さんはそう言った。生きてるのか死んでるのかすら分からなかったこの人は、判断するという事は諦めてしまったのだろうか。それとも、判断するのが怖かったのだろうか。

「良いです。そうしてください」

俺がそう言うと、三途さんはやっと顔をあげた。少しだけ、目の端や頬が赤かった。
その顔を見て、自分がちょっと――いや随分と大きな口を叩いてしまった事に気がついたけれど、今更後に引ける訳もなく。別に引く気がある訳じゃないけど。

「幽谷、君は本当に……13歳とは、思えない」
「三途さんこそ、やっぱり年上とは思えないです」
「今日やっと、ちゃんと生きてるって分かったくらいだからね……。今までの三途渡は死んだのかもしれない。今から君の目の前にいるのは、たった今生まれたのかも」
「……」

何と返事をして良いのか、分からなかった。

「ふふ、俺の言う事をあまり真に受けたらいけないよ。でも、真に受けてくれる幽谷は好きだよ」
「……どうも」
「何だかんだで、俺の話を何時も聞いてくれて嬉しかった」
「……」
「変な事ばかり話して、ごめんね」
「今度からは……もっと、他の話をしませんか」
「他の話?」

そう、もっと俺達は他の話をするべきなんだ。

「色々あると思います。俺の鍵当番明明後日ですから、考えといてください」
「うん、考えとくよ」

多分これから、三途さんと話す機会はもっと増えるだろう。いや、増やすべきだろう。
今日はもうそんな時間は無いから帰らないといけないけれど、明日からでも少しずつ増やすべきなんだ。俺はこの人に最後まで会って、話をするんだから。この人は会いに来ると言ったから。

「三途さん、ともかく今日は帰りましょう。……立てますか?」
「大丈夫……」
「じゃあ、行きましょう」

手を引く。

「何処へ?」
「決まってるじゃないですか。靴、俺達上履きのままですよ」

ゆっくりとした動作で、三途さんが足元に目を落とす。そのまま俺へと戻すと、笑った。

「……気が付かなかった」

その表情は、ちゃんとこの人が生きていると言い切れるだけの説得力を持っていた。