白黒的絡繰機譚

この気持ちにつける名前

「…………」
「…………」
「…………」
「……やっぱり、無理。ごめん……」

少し震える声と共に、身体が押し返される。
それと同時に、土門は当てつける様な溜息を吐いた。

「一体さぁ、それ何回目だよ?」

土門の家に行ってたわいない話をしたり、サッカー雑誌を読んだりする事には慣れた。
けれどそんな時間の中でふいに、今みたいな事が起こる。
土門が影野の重たげな前髪を耳にかけ、顎をあげる。広く明るくなった視界に映る土門は、試合の時と同様、いや、それ以上に真剣なまなざしで影野を見つめるのだ。
そのまなざしが影野には酷く居心地が悪い。元々人と目を合わせるという事に慣れていない所為もあるが、それ以上にそこに込められたものが分かってしまうのが原因だった。

「……ごめん」

土門の言う通り、こんな風になって謝るのは一体何回になるのだろう、と影野は考える。
もう数え切れないほど土門には謝った様な気がする。最初、彼に好きだと言われた時からそうだった。




********




『気持ち悪いかもしれないけど……俺、影野の事が好きなんだ。チームメイトとか友達とか、そういう意味じゃなくて、その……』

言われたのは、休日練習の帰り道の事。親に買い物頼まれたんだ、と言って集団から抜けた土門に腕を引っ張られ、声を上げる暇も無く早足で拉致されるような格好になった。多分そのまま誰にも居なくなった事に気がつかれなかったんじゃないだろうか。良くある事なので、今更影野にとっては気にする事でもないが。

『…………』

言われた瞬間、影野の思考は見事に止まっていた。
自他共に認める存在感の無さで他人の「好き」にも「嫌い」にも属した事が無い。そんなものは自分には関係ないのだと、諦めている節もあった。しかし、円堂が帝国学園との試合の為に走り回っていたあの時、頑張ってみても良いんじゃないか、そう思ってサッカー部に入部した。望んだとおり、目立つ事は出来たと思う。存在感が身に付いたかどうかは分からないが、それでも自分を必要としてくれる仲間がいる。それだけで、とても嬉しかった。
そんなきっと他人からすればささやかに感じられるであろう幸せを噛みしめていた影野にとって、土門の言葉は強烈過ぎた。土門は言いあぐねていたが、流石にそこまで鈍くはない。チームメイトでも友達でもない。こうやって二人きりにならないと言えない種類の「好き」なんて、そんな沢山候補があるものではない。
そう、答えは一つ。

『や、やっぱ無し!今の忘れてくれよ!な?』

思考と共に歩みまで止めてしまった影野に、土門が慌ててそんな事を言った。
その言葉でやっと、影野の止まった思考が動き始める。

『え……あの……その……』

動き始めた思考は、止まっていた分を取り戻そうとするようにぐるぐると回る。しかし、回るだけで何か明確なものを導き出しはしない。ただ、先ほどの言葉を壊れたプレイヤーの様に繰り返すだけだ。

『いやホント、ゴメンな影野。な、忘れてくれよ』

忘れられる筈が無い。この瞬間も、影野の中で土門の言葉が再生され続けている。
余り広くない影野の視界に映る土門は、どこか傷ついた様な顔をしていた。その顔に、影野の思考が鮮明になっていく。

『…………』
『悪い』

パン、と音を立てて手を合わせ、おどける様な表情と口調でもう一度「悪い」と繰り返した。
そしてまるでスパイだと発覚した時の様な表情に一瞬なったかと思うと、踵を返して歩き始める。

『ま……待って』

手を伸ばす。腕を掴む事が出来ず空を切った手は、何とか鞄を掴む。

『影野?』
『…………』

影野の頭の中で、言葉が浮かんでは消え、口から声にならない。数度ぱくぱくと口を動かし、やっと一言だけ声になった。

『行かないで』
『……それは、断る為か?』

土門の声は冷たい。

『違う』
『じゃあ、何だよ?』
『……分からない』

ピクリ、と土門の眉が跳ねる。声を荒げようと息を吸った瞬間、影野は彼にしてはとても珍しい――寧ろ出せたのかと驚く――普通の人程の声量を持って、それを遮った。

『でも、嫌じゃなかった。嬉しかった』

もしかしたら、こんな風に誰かに自分の気持ちをぶつける様な機会は、もうないかもしれない。
限界の頭の片隅で、影野はそう思った。

『だから、無かった事にしないで欲しい』
『影野……』
『俺を――』

続けようとした言葉は出ず、その代わりにけほっ、と影野の喉から乾いた咳が出る。慣れない音量に、喉が悲鳴をあげているかのようだった。

『……大丈夫か?お前、そんな大声出せたんだな』
『…………』
『なあ、無かった事にしなくていい……んだよな』

まだ声が出せそうにも無く、影野はこくりと頷く。

『なら、それはよ……俺の都合のいい方に考えちまっていいのか……?』
『…………』

咳き込んだ拍子に伏せていた顔をあげる。ほぼ同じ高さにある顔は、やはり傷ついたような表情をしていた。
影野の中で「好き」か「嫌い」のどちらかに土門を分類するとすれば、それは迷うことなく「好き」になる。ポジションを奪われた事で、ちょっと嫉妬する時期もあった事はあった。けれど、いつの間にかそんな事はどうでも良くなり、凄く仲がいいという程でもないが、土門から話しかけてくれる事もそれなりにあり、良いチームメイトになれたと思う。その後スパイである事が発覚したりしたが、今はもう過去の話だ。一緒にサッカーをしている本当の仲間を嫌う理由なんてどこにもない。
しかし、土門の言っていた「好き」はそれとは種類が違う。そちらの意味で「好き」かどうかというのは、判断が出来なかった。勿論、影野は自身の事を同性愛者だと思った事はない。今もそれに変わりはない。
けれど、影野にとって土門の言葉は、初めて他人から言葉にして向けられた「好き」であった。人に注目して欲しくて仕方が無い彼には、それを無かった事には出来なかった。

『少し……時間、くれないか……?』

普段より更に小さな声で、影野はそれだけ口にした。
土門はその言葉を聞くと、傷ついた表情を引っ込めて少し、笑った。

『ああ。勿論だ』
『……ごめん』

最初の謝罪は、今となっては一体何の事についてのものだったのか分からない。




********




あの日から、影野は土門と過ごす事が多くなった。
といってもそれからあまり経たないうちに一之瀬がやってきたので、学校内ではそれまでと殆ど変わりが無い。
休日、今日の様に土門の家だったり、またはスポーツ用品店や本屋に買い物に行ったりなどといった程度ではあるが、回数を重ねていくうちにそれが休日における普通となっていった。
あれから土門は影野に「好きだ」とは一度も言わない。だから時々、影野はあれは夢だったのではないかと思う事もある。
けれど、そんな思いはどうやら土門に見透かされているようで。そんな時に限って、土門は先ほどみたいな真剣なまなざしを向ける。

「……やっぱさ、無かった事にした方が良かったな」
「え」
「だってそうだろ?態度で分かる。今みたいな事になる度に俺、ダメージ受けてる」
「……ごめん」
「…………」

本日二度目の謝罪。膝を抱えてそれしか言えなかった。


「…………」
「…………」

嫌な沈黙が流れる。このまま何も言わなければ、何もしなければ、きっと二度とこうやって影野が土門の家にやって来る事はないだろう。
それだけは嫌だ。そう影野は強く思っていた。そして、それと同時に沢山の時間を貰ったにもかかわらず、未だ答えが出せない自分が嫌になった。土門の思いに甘えて、胡坐をかいている。酷く情けない格好だ。こんな自分を、土門が本当に好きなのだろうか?そういえば一体自分の何処を好きなのか知らない事を思い出した。

「……こんな俺の、どこが良いの」

存在感が無くて、誰にでも忘れられるような自分。喋り慣れてなくて、伝えたい事が上手く伝えられない自分。
影野の知っている自分は、そういうものだった。

「……全部」
「え?」
「全部。俺、影野の事全部好きだ」
「…………」
「確かに皆の言う通り暗いとこあるけど、話してみると全然そんな事ないし。そんな事思われてても、誰にだって優しいし。仕草がなんか可愛いし」
「…………」

土門が言葉を発する度に、影野の顔が熱くなる。自分について言われている筈なのに、まるで知らない人について言われているんじゃないかと思う程の言葉が、影野の心へ溶けていく。

「……俺、そんなんじゃ」
「そんなんだよ。きっと皆、影野の事優しくて可愛いって思ってるって」
「可愛いは無いと思う……。それに……今、土門を困らせてる……」
「……まあ、ね。ダメージは受けてる。でも俺、嫌いにはなれない。きっと普通のチームメイトにも戻れないだろうな……」
「土門……」

影野は思う。今、自分はあの時と同じく選ばなくちゃいけないのだと。先延ばしにしていたものを決める瞬間は今なのだ。

「……俺、土門の事……す、好きだ。けど……さっき土門がしたみたいに、き……キスしたいかって言ったら、何か違う様な気もする……」
「……だろうな」

子供をあやすように土門が影野の頭を置く。

「でも俺も、普通のチームメイトには戻れない……。こうやって一緒にいるのが好きだ……」
「…………」
「俺、分からない……。何か違う気もするけど、同じような気もする……。ごめん……」

やはり上手く言葉が見つからない。これでは何も変わらない。それでは駄目な事は分かっているのに、何も出来ない。

「……なあ、影野。今言ったよな?『普通のチームメイトには戻れない』ってさ……」

コクリ、と影野は頷く。

「じゃあさ、今の俺達の関係ってなんだろうな。普通じゃない事は分かってるけど、じゃあ一体……」
「それは……」

やっている事は多分、普通の友達同士に近い。けれど、その根底にあるものが違う。
それに不快感を感じはしない。寧ろ嬉しく思う。人に好かれるのは、とても嬉しい事だ。
けれど、自分がそれと同じものを向けているかといえば、正直分からない。
この状態に慣れ切ってしまっている影野にはもう、その前までと同じように振る舞えるとは思えないかった。それに、普通に戻ってしまえばこんな風に二人だけで過ごす事はないのだ。

「……大切」
「……え?」

ぽろり、と影野の口から言葉が零れる。ほぼ無意識のそれに、影野はやっと合点がいった。
この気持ちにつける名前は、それしかない。

「大切……なんだ。好きとかそういうのは、良く分からないけど……俺、土門が大切だと、思う」

やはり影野の口も思考も、上手くは回らない。こんな風に人に気持ちろぶつける事なんて初めてだから、仕方ないと割り切った。それならばそれなりに、言うしかないのだから。

「ずっと、こんな風に二人でいたい。それ位俺……土門が、大切だ……」
「…………」

土門を見つめる。すると土門はそれまで貼り付けていた厳しい表情を引っ込めて、ポカンとした顔になる。
そしてそこから数拍置いてから、いきなり慌て始めた。

「……土門?」

訳が分からない、といった様子の影野に、土門は呆れた様に溜息を吐いた。

「影野お前さ……自分の言った意味、分かってんのか?」
「意味?」
「……『ずっと二人でいたい』なんてさ、プロポーズじゃん」
「ぷ、プロ……プロポ……!?」

そう言われれば、そうかもしれない……というか、そうとしか感じられない。
自分の言った事なのに、どうしてこうも恥ずかしいのか。髪の下の影野の顔は、もう限界まで熱くなっていた。

「まさか影野の口からそんな言葉が出るとはなー。うん、俺惚れ直した」
「ほ、惚れ……!?」
「はは、すっげ赤くなってる」

つん、と土門が影野の鼻をつつく。つつかれたそこが、限界を突破して更に熱くなった様な気がした。

「…………」
「可愛いなぁ」
「可愛いって言われても……」
「仕方ないだろ、事実だし」

はは、と土門が笑う。その笑顔に、影野は心が満たされていくような思いがした。

「……土門」
「ん?」

影野の顔はまだまだ熱く、その所為でやはり思考も口も上手く回らない。けれど、言葉に出来た事によって、一つ、分かった事があった。それだけは、どうしても伝えなければならないと思った。

「さっきの……土門の言う通り、プロポーズだったの、かも……」
「……え?」
「うん……なんか、分かってきた気がする……。土門と同じように、好き……なのかな……」
「影野……」

土門が影野の手に触れた。顔と同じように、そこも熱くなっていく様な気がした。
いや、違う。触れてきた土門の手の方が、よっぽど熱かった。
もう片方の手で、また前髪が耳にかけられた。熱くなった顔に、空気が涼しい。
視線が合う。何も遮るもののないそれは、やはり慣れないものの、今は外せない。

「影野、俺」
「分かって、る……大丈夫、だから」

今はもう、それを押し返すことは出来ない。
これでもう、絶対「普通のチームメイト」になんて戻れないな、と思うと少し、おかしかった。
きっと自分が気がつかなかっただけで、とっくの昔に気持ちはそうなっていた筈だ。

くい、と顎が持ち上げられた瞬間、土門が怯んだ様な表情になる。

「……どうした?」
「いやあ……エロい顔してるなって思って」
「えろ……!?そんな訳……」
「いやいや、あるって。ホント、分かってないんだな」

反論しようとして、止めた。多分これ以上の言葉は無粋だ。
それにもう、沢山喋って疲れた……そう思いつつ、影野は土門に全て任せる事にした。

「好きだ」

返事すら出来そうにないので、影野は触れている土門の手に指を絡める。
唇が触れ合った瞬間、お互いに酷く満たされた、そんな気がした。