白黒的絡繰機譚

Sleepwalking

ハデスは本日何度目か分からない溜息を吐いた。 あの夢を見てからというもの、どうにも落ち着かない。たった一度だけではあったが、ハデスの脳裏に鮮明に焼き付けられたそれは未だ色あせる事はない。それどころか色を増しているのかもしれない。 ハデスとしてはそこから来る動揺を押さえ、普通にしているつもりだったのだが――。 「先生、今日は何かあったんですか?」 一番それを気取られたくないアシタバは、観察力に優れていた。小さく細く吐いた息でさえ、気が付いてしまう。 藤や美作や真哉は気がつかなくとも、アシタバだけは気が付く、という事はこれまでにも多々あった。それは優れている事であって、長所だと思っていたが――こういう時ばかりは、それを憎く思ってしまう。自分の勝手な都合でそう思ってしまった事が、後ろめたかった。連鎖する様にハデスの中でアシタバに気取られたくない事が増えていく。 「いや、何もないよ。もしかして僕、何かおかしかったかな」 「そういう訳じゃないですけど……」 アシタバは言葉を濁す。 「別にフツーだろ」 「だぜ。アシタバ気にしすぎだっての」 「そうかな……」 藤と美作にそう言われれば、アシタバはちらりとハデスに心配そうな眼差しを向けたものの、彼らに向き直り話と昼食の続きへと戻っていく。 その姿に昔の自分を見つつ、ハデスは彼らの為に茶を淹れる。慣れ切ってしまった日常だった。 その日常の中で、ハデスの抱えるものだけが非日常だ。冷血ですら食いつくしてくれない、そんな感情があの日から渦を巻いている。夢を見た直後は休日だから良かった。しかし今日からは平日で、自分に急な出張でもはいるか、アシタバが体調を崩して休む事でもなければ毎日顔を合わせる事になる。 其現実にまた溜息が出そうになり、ハデスは慌ててそれを思いとどまる。変に呼吸を止めた所為で、むせてしまい余計不審になってしまったが。 「……っは!げほ……っ」 「先生……」 「だ、大丈夫。大丈夫だよ」 それよりも、と時計を指さす。もうすぐ予鈴が鳴るだろう。 授業が始まってしまえば、保健室は静かだ。自分以外誰もいない事は寂しいが、悪いことではない。彼らを送り出し、ハデスは椅子に身体を預ける。ここ数日眠りが浅かった所為だろうか――ふわり、と襲った眠気はハデスに抵抗する隙も与えずその意識を引きずりこんだ。 ******** 「どうしたんですか?」 不安そうに瞳が揺れる。どうして彼は、それを察知してしまうのだろう。 「どうもしてないよ。郁は心配性だね」 そう言って笑ってみるけれど、空元気にしか過ぎない笑顔が通じる訳もない。 「そうかもしれませんけど……でも僕」 「ありがとう。大丈夫、僕は普段通りだよ」 「逸人さん」 通じる訳がない。それは十分分かっていると言うのに、必死になってしまう。まだ幼さの残る顔に浮かぶ不安は、自分が抱えているものとも近い。 「……本当はね、不安になったんだ」 「不安に?」 「うん……。情けない話だけどね。何時か消えるかもしれないから」 「消える……?」 「喰われないとは、限らないんだ。――郁を想う、この感情が」 ハデスの中に巣食う冷血は感情を喰らう。その喰らう感情に見境はなく、他の病魔を喰らわせ続ける事が出来なければ、どうなるかは分からない。 「…………」 不安そうにしていたアシタバの表情が、更に暗くなる。 「……ごめんね。そういう顔をさせたいんじゃないんだ。ああ、やっぱり僕はこういう事が、下手で」 ハデスには、気の利いた言葉をかける事も、不安を完全に取り除く事も出来ない。アシタバにこんな顔をさせてしまう自分自身が、酷く情けなかった。 ただ、大事にしていたいだけなのに、それが上手く出来ない。アシタバと付き合うようになって、痛い程実感させられた。 「逸人さん」 「郁」 「僕は、それでも郁が好きだし――この感情を、失いたくないと思ってる」 手を伸ばす。触れた頬は、自分と違って温かい。一度知ってしまったこのぬくもりを失う事だけはしたくなかった。一度知ってしまえば、人間はどこまでも貪欲になる。それが病魔という闇を引き寄せるとは分かっているが、それでも。 「僕も失いたくないですし……失って欲しくない、です」 「……うん。ごめんね。本当にごめんね。僕は、君にそんな顔ばかりさせてしまう」 「そんなことないです」 「ありがとう。きっと……」 きゅう、と自分と比べると随分小さな体を抱きしめる。まだまだ成長期のその身体は、少しずつこの差を縮めていくだろう。唇を合わせるのに丁度良いくらいの大きさで止まってくれないか、などと思ってしまっている事まで気取られたらどうしたら良いだろうか。 「例えこの感情が喰われようとも、僕は何度だって郁を好きになるよ」 好きになるという感情さえ喰らい尽くされてしまっても、そうでありたいとハデスは思った。 一度知ってしまえば、もう知らなかった頃には戻れない。 ――そう、戻れないのだ。 ******** 「――先生。先生?」 「……アシタバく、ん!?」 目を開けると、アシタバが自分を覗きこむ様な形で見つめていた。 ガタガタッ、と音を立てて椅子ごと身を引く。 「あれ、授業は……」 「もう終わりましたけど……?先生、もう放課後ですよ」 え、と思い時計に目をやると、確かに放課後であった。己の仕事をほおり出して――という程訪問者がある訳でもないが――寝こけてしまったという事実が寝起きの頭を更に揺さぶる。 「先生やっぱり……」 「ち、違うよ。大丈夫。アシタバくん僕は大丈夫だから」 「……」 大袈裟に手を振って否定をする。全く以て大丈夫ではないという事はハデス自身把握していたが、言える訳がなかった。アシタバは守るべき生徒であって、頼るべき相手ではないし――それに、君と交際している夢を見て、動揺しているんだ、なんて誰が言えるだろうか? 『僕は郁を愛してる。そして郁も――僕を愛してる』 『例えこの感情が喰われようとも、僕は何度だって郁を好きになるよ』 頭の中に響くのは、自分の声だ。それはただの夢の中での発言の筈だ。そう、全ては夢。それは分かっている。けれど、夢の中の自分が、現実に重なる。 そんな訳がないと否定をしても、既に――遅い。 「大丈夫、だよ」 何一つ大丈夫出じゃない。けれど、それ以外に何と言って、どうすればいいのか分からない。夢ではないのに、アシタバの事が愛おしくて仕方がない。夢の中で抱きしめた感覚が、抱きしめていない筈の腕に残っている。 「だから、そんな顔をしないでアシタバくん」 ああ、現実でも夢でもどうして自分はこういう事が下手くそなのだろう。 夢の自分ならきっと、ここで抱きしめるのだろう。けれどハデスがいるこの保健室は現実に過ぎず、それを実行する事は出来ない。 それを歯痒く思いながら、ハデスはもう一度「大丈夫」と言った。






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