白黒的絡繰機譚

パーフェクトユアハンド

2011/08発行同名個人誌収録

それはなんの前触れもない、まさに突然の出来事だった。
恐らく仕掛けた張本人にはそんな自覚なぞないのだろうが、仕掛けられた方である達海にとっては突然も突然、どうしてそうなったのかの意味すら分からない。

「好きなんだ」

練習もとうに終わり、さて自室で戦略を練るかと欠伸をしつつ廊下を歩いていた達海は、いきなり襟を掴まれる。何事かと振り返ろうとした瞬間、背後からそう囁かれた。突然そんな事をされた達海は不快そうに眉を顰め、仕方なく足を止めた。囁いた男――ジーノが突然かつ突飛なのは達海だけではなくETU、いや日本サッカー界では常識と言っても良いだろう。

「……で?」
「好きなんだよね」
「あっそ」

そんな自身の評判を知ってか知らずか、王子様は、何時もと変わらない口調と表情で、もう一度囁いた。ジーノのキャラを受け入れている、とまではいかないが、ある程度理解している達海は、そっけない返事だけを返していく。どうせ言うだけ言えば満足して、それで終わると思ったからだった。
それに、達海はこの頃ジーノからの視線を感じていた。刺さるような、しかしどこか熱っぽい視線を感じつつ、完全無視をしていた。それの負い目がほんの少しだけあった事も、達海が大人しくしていた原因の一つだった。

「……」

緩慢な動作で振り返り、ジーノを正面から見据える。ほほ笑みを浮かべた姿は、柔らかそうだがここから立ち去る事を許さない、そんな圧力があった。最も、それに怯むような達海ではなかったが。
ただ無言で達海を見つめ続けているジーノだったが、達海にすれば随分と長い間続いたそれは、突然あっけなく終わった。

「……タッツミーの手が、好きなんだ」
「は?」

ぼけっとジーノの視線と無言を受け止めていただけの達海の表情が驚愕に彩られる。それを見たジーノは、満足そうに笑った。

「タッツミーの手、好きだよ」
誰の手よりも、ね。
そう言って更に笑みを深める。

「……ああ、そう」

ジーノの満足そうな表情が、達海の精神から言うだけ言わしておこう、というなけなしの優しさすら奪っていく。本格的に達海は早く終われ、と思うしかなかった。
なんでこんなどうでも良い事に付き合っちゃったんだろうなー、とどこか呑気に考える。そんな事を考えて、表面上はぼうっとしている達海の右手を、ジーノは勝手にジャケットのポケットから引き出した。

「こうやってちゃんと触ってみたいと思ったんだよね」

すう、とジーノの手が達海の手の甲を撫でる。

「……っ」
ただ触れる、撫でるというだけではなく、含みのある撫で方に、ぞくりと達海の背を何かが走る。

「タッツミー、君の手をボクにちょうだい」

一歩間違えれば危険な台詞だったが、王子様の声がそれを発すると、随分さまになった。

「お前に? 俺の手を?」
「うん」
「……まさか、そういう趣味があったなんて思わなかったわ」

ちょっと引くなー。
そう言いながら達海は半歩、後ずさりをする。

「うん、多分タッツミーちょっと勘違いしてるよね」
「ジョークだよ、ジョーク。分かれって」
「酷いジョークだ」
「お前だって似たようなもんじゃん。ジョークじゃない分、余計たちが悪いし」

おや、とジーノが意外そうな顔をした。

「ジョークだと思わないんだ」
「流石に、お前はそんな事冗談じゃあ言わないだろ」

真顔で返された言葉に、ジーノはほんの少し――それは表面上の事で、実際は随分と――驚いたようだった。年齢差、経験差故か、飄々と人を振り回すジーノの言動や行動も、達海には通じない。彼の手を好きと言うのとは違う意味でだが、そんな達海の事をジーノは嫌いではなかった。寧ろ気に入っていると言っても良いかもしれない。

「……ふうん。じゃあ、ちゃんと分かってる、ってそう言うの?」

宣言したように、ジーノにとって大切なのは、達海の手だ。それ以外の性別、容姿、性格、その他諸々は二の次である。勿論、それがジーノの好みに合うのならば、その方が望ましいが。
けれど、はっきり言って、達海猛という人間自体は、ジーノの恋愛的好みからほど遠い。嫌いではないし、気に入っているが、それはあくまでフットボール絡みでの話だ。

「多分。……あれだろ、俺の手をお前はコイビトにしたい訳だろ」
「へえ、正解だ。意外だな、そういう方向にはニブいかと思ってた。ごめんね、タッツミー」

ちっとも謝る気のない声でジーノは謝罪を述べる。謝罪自体はどうでも良いのだが、達海はそれに続いたニブい、という言葉がやけに引っかかっていた。
確かに、自分は色恋沙汰に興味をあまり持っていない。けれどもそれをニブいとイコールで結んでしまうのは違うのではないだろうか。少なくとも、ジーノの求めるものを分かるくらいの勘は働く。理解し、受け入れるという訳ではないが。恐らくジーノも、そこまでは期待していないだろう。肯定せずとも否定はされない、そう思っての発言だと達海は踏んでいた。

「なあ、ジーノ」

色恋沙汰に大して興味はなく、またジーノをそういう風に見ている訳でもない。それだけは断言できた。
けれども、興味があった。手だけを求められる事は、流石に初めてだったので。フットボールプレイヤーとして活躍していた時に、純粋に足を求められる事はあったが。

「俺の手も俺も、お前をそういう風に見てないけど、それでもいいワケ?」
「いいよ」

あまりにも迷いも躊躇いもない返事に、一瞬達海は驚く。けれどすぐ、迷いも躊躇いもないのかを理解した。
(コイツ、俺が断んねえって分かってたな……)
達海の目の前の男は、そんな事思っていませんでした、とばかりに嬉しそうな顔をしている。
ああ、やっぱり付き合うんじゃなかったかなーとぼんやり思った。どちらの意味でも、少し後悔をする。

「嬉しいなあ。という事でこれからよろしくね? タッツミー」
「はいはいヨロシクー。……で、いい加減離してくんねえ?」
「駄目」

十分触る為に告白したんだから。
そう言うジーノの手の動きに、どこか居心地の悪さを感じながら、達海はそれでもジーノの好きにさせていた。どうせ言ったって聞かないから、というのが理由である。
――本当にそれだけなのか、と達海に問う人物は誰もいない。
なのでその日から、大して揉める事もなくジーノと達海(の手)のオツキアイ、が始まったのだった。





「握手して」

突然の告白によりジーノとオツキアイする事になった達海(の手)であるが、夜が明けて初日となったその日から、またも達海は突然に翻弄される羽目になった。

「え? 握手?」
「うん、握手」

昨晩と違い、今は練習中で人目がある。それにも関わらずジーノは握手がしたい、と言う。
とすん、と達海の座るベンチの空きスペースにジーノが腰を下ろす。

「握手すんの? 今、ここで?」
「他にどこでするのさ。タッツミー大丈夫?」

まるで達海の方が変な事を言い出したような物言いだ。
(……隠さなくていいのか?)
どう考えてもアブノーマルすぎる昨晩より始まった関係は、隠すものだという結論しかない、筈だ。元より達海に公言する気なぞないが。

「心配しなくても、握手位じゃ誰も何とも思わないよ」

達海の心を読んだかのようにジーノが言う。

「あー、そっか」

先程までの戸惑いはどこへやら、達海は自分の掌を見つめながら呟く。筋張って少しくたびれた年相応か、ほんの少し若い程度の手がそこにはある。一体これのどこが琴線に触れたのか、達海にはちっとも見当がつかなかった。
でも、と達海は思う。俺には理解出来ないそこが良いんだろうなあ、きっと。

「んだけどジーノ」
「何、タッツミー」
「今俺たちすっげ見られてる」

あるミスターETUは横目で窺うように、ある瞬速でチキンな若手はぽかん、と口を開けて。十人十色、千差万別の態度と視線で、ETUの選手とスタッフたちは、やけに近い監督と王子様を見つめていた。

「それが?」

ピッチ上でどんな事が起きようとも貫かれるマイペースは、これくらいの視線では揺るがない。

「いや、別に。面白いなーと思って。……よし、握手するか握手」

ずい、と達海は右手をジーノへと差し出す。
ジーノは差し出された右手を細めた目で見つめ、ゆったりと自身の右手を差し出した。二人の手がゆっくりと触れ合う。

「……お、割とお前の手って汗ばんでんのな」

汗かかない性質かと思ってた。
感心したように呟いた達海の手はというと、ジーノの手入れされた手とは違い、少しかさついている。爪先も恐らく爪切りで切った後にやすりなぞかけた事がないのだろう。爪先のラインはガタガタで、少し肌を刺激する。
見た目は完璧なのに、これはいただけない。ジーノは心の中で溜息を吐いた。
分かりやすい言い方をすれば手フェチ、と呼ばれる趣味を持つジーノが今まで気に入った手は、どれもしっとりとした肌と、整えられた爪で出来た女性の手だ。間違っても年上の男の、少々どころかとても手入れ不足の手などではない。

「タッツミーの手は、かさかさだね」
「いや、お前が湿ってるだけだって」
「なに、湿ってるって。まるでボクが汗かきみたいじゃない」

汗を全くかかないのは健康的ではないと思うが、かといってだらだらと流すのも見苦しい。見栄えのアクセントになる以上の汗をかいている自身なぞ、ジーノは想像すらしたくなかった。

「汗かきじゃなくたって練習すりゃこれくらい湿るって。普通普通」
「タッツミー……」

何か言おうとして、そして止める。ちらり、と視線を感じる方を見ると、ひい、と小さな悲鳴と共にジーノの忠犬が走り去って行った。

「んお、ジーノもう休憩終わり」

ぱ、と達海が手を離す。達海曰く湿った手に外気が当たり、少しだけ冷える。

「おーし、お前ら再開するぞー。……松ちゃん何固まってんの?」

すたすたとジーノを気にする事もなく「監督」になってしまった達海の背中を見つめる。テキパキと選手たちに指示をする為に使われる指先は、遠目に見てもやはりジーノの好みだった。
(まだ触っていたかったなあ……)
練習をしっかりやれば、触らせてくれるだろうか。そう考えながらゆっくりとジーノは立ち上がる。

「あ、別に大丈夫か」

何も心配する必要なぞなかったと、ジーノは口に手を当てて笑う。横でそれを見た赤崎が怪訝そうに眉を顰めた。
(だってあれは、ボクの手なのだから)
それ以外に、理由がいる筈もない。





――その夜、扉がノックされた。
何時ものように戦術研究用のDVDを見ていた達海がわざわざ開けに行く訳もなく、十数秒間扉が開くことはなかった。が、達海はどうせ有里だろう、そう思って振り返りもしない。
(……ん? 違うか。ノックするって事は後藤か? 勝手に入っても来ないし)
頭のほんの片隅でノックの主を探っていたのも少しの事。達海の意識も思考も、すぐに画面と手元の資料に戻ってしまう。

「あー、やっぱりなあ」

「あー……。やっぱりかあ」

一方扉の向こう側。電気が落とされ、暗い廊下に立つのは、有里でも後藤でもない、この時間この場所に恐らく一番似合わない男だった。
昼間握った達海の手を思いながら、ジーノは扉を開けた。

「……こんな狭いところでよく生活できるね。感心しちゃうな」

その扉の向こうは、思わずそんな言葉を漏らしてしまうような有様だったが。
監督就任直後から達海の家と化しているクラブハウスの一室は、紙と映像の資料、達海の脱ぎ散らかした服などの所為で、正直綺麗とは言い難い。もっと端的に言ってしまえば汚い。不快な臭いはないものの、あまり目にも優しくないそれに、ジーノはすぐその表情を引っ込め、眉間にしわを寄せた。

「そりゃどーも」

ひらひらと手を振りながら気の無い返事をする達海からは、ジーノを構おうという意思はみじんも感じられない。ジーノとしても構って欲しい訳ではないが。
ジーノはこの散らかっている部屋に、部屋の主を構う為にやって来たのだから。

「タッツミー、手貸して」

ジーノの声に、達海は大人しく右手を差し出した。

「一応、聞くだけ聞いてみるけど」
「うん」
「手入れとかしてる?」
「何の?」

達海の返事に、ジーノはあからさまな溜息を吐いた。む、と達海が眉を寄せたが、ジーノの表情はそれ以上に不機嫌そうだ。

「手に決まってるじゃない。なんで手入れしないのさ」
「えー……。面倒だし、する理由がないじゃん」

もし達海が有里のように女性であれば、三十五歳という年齢的に考えて、ケアも必要かもしれない。しかし、達海は見た通り男であり、そしてジーノの望む手入れとは無縁の生き方をしてきていた。彼がこの三十五年生きてきて行ったケアなど、フットボールに関する以外ありはしない。

「もう、ボクの手なんだからちゃんとしてくれないと。今日からこれ、あげるから使って」

そう言ってジーノは何やらブランドものに見える紙袋をローテーブルの上へと置いた。そこから取り出されたのは、チューブに入ったハンドクリームだった。それも普通に市販されている、ブランド物でも何でもない、よくコマーシャルで名前を聞くようなハンドクリームだ。

「……なんでこれ、こんな袋に入ってんの」
「悪い?」
「いんや? 王子様がそこらのスーパーとか薬局の袋下げてるよりいいんでない?」

商品棚で矯めつ眇めつハンドクリームを選んでいるジーノや、それをレジに持っていき支払いをしているジーノを勝手に想像して、達海はニヒ、といつも通り笑った。

「普段こんなもん買ったりすんの?」
「買うけど、これじゃない」

ジーノが口にしたブランドは、勿論達海には綴りすら浮かばないような代物だった。

「お前らしいなー。でも、俺はこれなんだ」
「不満なの?」
「いんや。お前と同じもの渡されてもなんかなーって思うし」
「そう言うと思ったから、これにしてあげたんだけど」

感謝してよね。
そう続けたジーノの声は心なしか拗ねたような響きだった。ニヤリ、と達海の口元にあくどい笑みが浮かぶ。

「お前ってさ」

にやにやと笑いながら、達海はジーノを見つめる。

「結構、尽くすタイプだな。フットボールと同じで洞察力もあるし」
「……」

ジーノはなんとも言えない表情をしている。それが面白く感じて、達海は更に笑みを深めた。

「それなのに、お前のコイビトはコレなんだな。更にそれの持ち主は俺だなんて」

ひらりひらりとジーノの前で右の掌を振る。どこか悔しそうにしつつも、その動きを目で追っている。
ああ、本当に手が好きなんだなコイツ。
しみじみと達海は思う。それと同時に、もしや時々聞こえてきた彼女と思しき名前の数々も、自分と同じように愛でられたのだろうかと。

「別に、タッツミーで良いけど」
「え」
「タッツミーで、全然良いけど」
「……マジで?」
「うん」

先ほどまでのジーノのように、今度は達海があっけにとられる。悔しそうにぶすっとしていた表情のまま、そっぽを向いたジーノが続ける。

「タッツミー楽だし。ナッツとかがボクの理想の手を持ってなくて、本当に良かったと思ってるけど」
「夏木と比べんなよ」

くすり、と達海は笑う。確かに夏木がジーノの理想の手を持っていたとしても、ジーノは理想を捨てるだろう。夏木には悪いが、達海はそう思った。
キザで、根っからの王子様のこの男は、それでも根っからのロマンチストとイコールではない。それは、自分がロマンチストでなくとも、それなりの水準のロマンが実現可能なスペックの持ち主、という意味でもあるのだが。

「だからさ、ちゃんと自覚を持って」

ちゅ、と右手中指に王子様のキスが落ちる。
かさついた手と、整えられていない爪先に、それはどうにも不釣り合いだ。不相応だ。流石の達海もほんの少しだけではあるが、そう思った。

「ハンドクリーム、ちゃんと塗って」
「……えー」
「今度は爪やすりも買ってあげるから。爪もちゃんと磨いて」
「男が爪やすりかけんの?」
「男とか女とか関係なく、手入れしてよ。元々綺麗な手なんだよ。勿体ない」
「……」

すい、と達海が自身の手を引く。ジーノの支配から解かれたそれを自分で見れば、ただの達海猛の手以外の何物でもない。
(変わってるよなあ、ホント)
どう考えたって、もっと選びようがあった筈だ。こんな近場で、リスクだらけの手なんて選ぶ必要なんてない。それにも関わらず、達海の手を選ぶ。この選択がもたらすであろう結末を、達海は知っていた。
知っていて、見て見ぬふりを、していた。






だから達海は、どこか冷静に自身の状況を見守っていた。毎日、とまではいかないが、ジーノがほぼ勝手に部屋へとやって来て、不満を言いながら手を撫でる事には何も言わなかった。ジーノも遠慮がなくなったのか――元々、あまり持ってもなさそうだが――今では許可を求めもしない。

「タッツミーは変わってる」

達海の手を堪能していたジーノが、ぽつりと呟いた。

「うん、よく言われる」

だから何? と達海はジーノに問う。ジーノはううん、と軽く悩むような声を出し、そして言った。

「計算外になりそうなんだよね」
「計算外」
「そう、計算外。困るんだよね、そういうの」

はあ、とあからさまに溜息を吐く。

「え、何それ。俺が悪いの?」
「悪いに決まってるじゃない。ボクはただ、君の手が好きだって言っただけだよ。君もそれを受け入れてくれた。そうだったでしょ? なのに、さ」

ジーノの手が達海の顎を掴んで、少し持ち上げる。かち合った視線は、逸らされはしないものの、込められた熱に随分と差があった。

「どうしてくれるのさ。タッツミーの手以外にも触れたくなっちゃったよ」

すう、とジーノの手が達海の手の甲を撫でた。
この、なんとも言い難い関係が始まる事になったその日も、ジーノはこうして達海の手を撫でた。その時達海は、含みのある撫で方にかすかな嫌悪を抱いた。
それが、今はどうだろうか。考える必要性もない。知っていたのだから。

「いや、俺何もしてないし」
「したよ」
「してない」
「したよ」

子供じみた押し問答が続く。達海は仕方なく、違う言葉を紡いだ。

「……それで計算外のお前は、俺にどうして欲しいわけ?」
「決まってるじゃない、全部ちょうだい」

最初に手が好きだ、と言った時と同じ迷いのない、熱のこもった目が、達海には眩しい。

「……」

どう答えたものか、達海は迷った。迷っているうちに、王子様はまた指先にキスをして、ニッコリと笑った。

「じゃあ、また試合の後にでも」

――達海の逃げ道は、綺麗に塞がれた。
(これこそ、計算外だよ)
そう達海が思った事を、ジーノは知る由もない。






「……おい吉田」

アウェーでの試合翌日、軽い調整を済ました後、私服に着替え、さて駄目元で達海の部屋をノックしてみようか、と思っていたジーノは出鼻をくじかれた。
まさかあんな事を言った後に達海から話しかけてくるとは思いもせず、更にそれが初めてであった頃に一度だけ言われた、嫌がらせな呼び方だとは更に思っていなかった。

「やめてよ。ボクは……」
「はいはい、分かってるっての。オージサマ、ちょっといい?」

ちょいちょい、と指先の手招きに導かれ、ジーノは達海に近づく。達海に従ったのは、この後特に予定がなかったのもあるが、一番大きいのはその手招きが可愛かったからだった。
ボクも随分単純になったな。
と、ジーノは心の中で溜息を吐く。それが凄く嫌という訳ではないのだが、なんとなく負けたような気がする。

「なに、タッツミー」

クラブハウスの廊下には、ムードもへったくれもない。今更、ジーノが達海にそれを求めるつもりもないが。

「最初手が好きだって言われた時から、なんとなく覚悟はしてた。どうせこうなるだろうってな」

ずるり、と壁に背を預ける。

「だから、別にどうこう言う気もない。……俺も、嫌じゃないんだよな、お前に触られるの」
「……タッツミー」
「だから、一つだけ確認させてくれよ」

ごくり、とジーノは唾を飲む。

「――それって、今までとなんか変わりあんの?」

予想外の事を問われて、それでも冷静にジーノは答えた。
(ああ、本当に計算外のことばっかりしてくれるね!)

「手だけじゃなくて、こうやって――」

軽い音すらしない静かなキスは、ほんの少しの抵抗もない。

「キスしてあげる。それ以上もするよ。……ほら、随分変わる」
「……馬鹿だな、ジーノは」

どこか呆れたような、泣きそうな顔をジーノは至近距離で見た。

「手だけで満足してりゃあ良いのに」
「無理だよ、そんなの」

破顔した達海を、ジーノは優しく抱きしめる。背中に回った手の感触は、ほんの少しだけ柔らかい。ハンドクリームをちゃんと塗っているのだろうか。あの達海が!

「もうきっと、タッツミーなしじゃ駄目なんだ。計算外だ。計算外すぎる」

手も爪も腕も身体も心も全部、いつの間にか全てがジーノの好みとなっていた達海は、耳元で一言だけ囁いた。

「俺は、ま、大体計算内だったぜ? ジーノ」

何が、とは聞く必要もない。