かぷかぷり
ちり、と痛んだ。「……っ」
思わず声が漏れると、一瞬置いて飛び退いた。
「す、すいませんしたっ!」
怒鳴られるんじゃないか、という表情をした椿は、上目遣いで俺を見上げている。
そんな椿を見たら、喉元まで出かかっていた怒声はしぼむようにまた、ただの空気に戻っていく。
「椿……」
とりあえず、なるべく何時も通りの声で椿を呼んだ。
それだけなのに震える身体は、何時まで経っても変わりがない。
いい加減どうにかなってもいい気はするんだが、そうなった椿を俺は想像できずにいる。
……だから、ってのもあるんだろうかもしかしたら。
「いや、謝らなくて良いからよ。何?癖?」
「あー……。はい、っす」
コクリ、と頷く。
「なんかその……、時々、無性に噛みたくなるんッス……」
ごにょごにょとそう言い、更に『小さいころから何か口に入れたり、噛んだりすることが多かったらしい』と付け加える。
オドオドする以外に癖らしい癖があったのか、と(一応こんなのでも)新しい事実を頭の中で反復し、記憶に留める。
「ふーん……」
「……ったっスか」
「あ?」
「その……い、痛かったっすか」
どんどんと細く、小さくなる声。
「いや、だったっすか」
萎縮して、顔色をうかがって、そして不安そうな目で俺を見る。
……王子の言っていた事を真に受けたりする気はないが、目の前、俺の懐にいるコイツは間違いなく犬だった。
世良さんみたいな人懐っこい野良犬でも、王子みたいな態度のでかい犬でもない、もう一度捨てられる事を恐れているような、そんな犬。
犬のコミュニケーションなんてそんなものだ、という考えが一瞬浮かんで消えた。
「……」
別に、嫌かと聞かれればそうじゃないと言える。
けれど、ここで言うべきなのはそれではない気がして、喉と舌先で言葉を転がすだけ。
「椿」
なるべく、尖らない様に、ぶっきらぼうにならない様に注意する。こんな事思いながら話すのはきっと、コイツだけだ。
ぐい、と肩を掴んで、もう一方で口を塞ぐ。
「……っ」
手のひらの下で、驚いて息を飲んだのが分かった。
「痛い?」
口と手を離して、そう聞いた。
「あ、いや……。痛くはないっす、けど」
そりゃあそうだろう。
俺は歯を立てることなく、首筋を甘噛みしただけだ。
「けど?」
じい、と見つめて先を促せば、少々ビクつきながらも黙ることはない。
「ザキさんも、その……好きなのかって、思って……」
「いや、好きじゃねぇけど」
「!!」
驚いたというか、少し傷ついたような顔をされた。……いや、これは別に失言したわけじゃない。
ちゃんと考えて喋っているからな、俺は。
「でも、お前が好きなら、好きなだけ噛めば」
そのかわり、と言うと何か違う気もするけれども。
「俺も、好きにするし」
こういう風に首筋に顔を埋めて、好き放題する免罪符なだけかもしれないけど、それでも、嘘ってわけじゃない。
「……」
俺から椿の顔は見えないけど、どうせ呆けた顔をしてるに違いない。
「噛まねぇの」
促せば、恐々と肩に手が添えられる。
そして、硬い歯と少し乾いた柔らかい唇が当たる感触。
「椿」
呼んで、噛む代わりに痕を残す。どうせ俺にも残るんだから、これくらい良いだろう。
「ザキ、さん」
「好きだ」
「す、好き、です」
馬鹿みたいに名前とそれだけを繰り返した。
段々と成り立たなくなる会話なんかよりも、段々と強くそれでも俺を傷つけない様にする椿のそれがやけに気持ちよかったことだけは、噛み跡の様にしっかりと覚えている。