困惑と多忙と先の光
夕神迅は、困惑していた。全ての真実が明らかになり、手錠と監獄に別れを告げて娑婆の空気を満喫出来る身となった。ここまではいい。
仕事は鷹の羽根を借りても追いつかない程に忙しく、新居は殆ど寝るためだけの場所と化している。それも別にいい。
問題はただ一つ。
「おめぇさんに惚れちまってるンだが」
「……はい?」
某日某時刻裁判所廊下にて、夕神は見慣れた赤い弁護士を引き止めてそう告げた。
彼の抱えていた問題というのは、どうもこの赤くて声のでかい弁護士に惚れてしまっている、というものであった。
「おめぇさんに惚れてンだよ」
「聞こえてはいます。聞こえては……」
「それならいい」
少し音量を上げて繰り返すと、大丈夫ですとばかりに手のひらを向けられる。
そういえば、と夕神は気づく。ここまで至近距離で向き合うのは初めてではないかと。検事と弁護士であるので、向かい合い見つめ合うのはいつものことだが、こうして腕を伸ばせば抱き込めるような距離になるのはまずない。
一瞬そうしてしまおうか、と思ったが、流石にそれは宜しくないだろう。
「で、おめぇさんはどうだ」
「オレ」
「俺は惚れてる、なら惚れられてるかどうかが気になる、そうだろう?」
とは言ったものの、夕神は正直期待してはいなかった。
見た目中身共にひん曲がった、服務歴のある年上の大男。ろくに交友もなく、仕事となればお互い斬った待ったのやりたい放題。
惚れてしまった己の方がなにかおかしい気がしなくもない、なんとも言えない関係性だ。
それでも、夕神は欲しかった。
今も見上げてくるこの真っ直ぐな目を持った、王泥喜法介が。
「それは……その……」
だらだらと冷や汗を垂らす様子からは、良い返事の気配はない。
躊躇わず一思いに斬り捨ててくれりゃいいのによ、と夕神はため息を吐いた。
「泥の字」
ならば己で腹を切るしかない。
そもそも叶う筈のない想いだ。なにせ惚れた時はまだ死刑囚の身分だった。命ともども消えるはずだったものが、救われてしまった。だから欲が出た。
欲をかくと碌な事にならないのだと、今一度理解しなければいけない。
「気ィ遣う必要はねえ。いつもみてぇに真実だけ言やいいのさ」
「……ユガミ検事」
夕神を見上げる王泥喜の眉間に皺が寄る。
「その顔も、心理操作ですか?」
「なんのこった」
「……」
王泥喜が腕輪を擦った。
「本当に、真実だけを言っていいんですね」
「……あァ」
王泥喜の持つ『インチキ』は何かに気づいたのだろうか。いや、と夕神は否定する。そんなものに頼る必要なんてない。
「オレは」
王泥喜の目に夕神が映っている。
ずっとこうならば、心理操作を疑われても仕方がないだろう。
「ユガミ検事のことを、その、惚れてる惚れてないとか考えたこともなかったです。……でも」
酷い顔だ。恐らく、刑務所にいた頃と同じくらいには。
「そんな顔はしてほしくない。……それが俺の真実、です」
「泥の字……おめぇ……」
口を手で隠して言葉を反芻する。
ああ、やはり弁護士ってのは厄介だ。とんでもねえ言葉を使いやがる。夕神の口元が緩む。隠さなければ、とんだ間抜け面になっていただろう。
「な、真実を言えって言ったのはそっちでしょう」
「そうだがよ……。おめぇさんそりゃ、今は惚れてねえにしろ可能性があるってぇ取れるが」
「えっ。……。……の、ノーコメントで」
先程よりも冷や汗をかき出したことに、夕神は笑いを抑えきれない。
「覚悟しな。俺ァしつけぇぞ」
「う……や、大丈夫です!」
口癖を叫んだ顔は、普段どおりに戻っている。そして、そこに映る己も。
「そりゃァ、楽しみだ」
夕神迅は、困惑していた。
叶う筈のない想いに、可能性が見えてしまったからだ。けれども、困惑以上に期待と喜び、そして愛おしさが膨れ上がって仕方ない。
問題はただ一つ。
「なっ、なにするんですかっ!!!」
変わらず裁判所廊下であるにも関わらず、抑えきれず王泥喜を抱きしめてしまったということだ。