白黒的絡繰機譚

キミは特別

2011/5/8発行 弓彦受アンソロジー「Sweet Fool」寄稿作品

道を示す、と宣言した御剣怜侍は彼の師となった。
傍らで見守っていた彼女は、まるで本当の保護者の様だった。
糸鋸刑事と一条美雲の二人と話す姿は、友人の様に見えた。
では、と信楽は考える。視線の先にいる彼、一柳弓彦にとって、己は何なのだろうと。

「おいしいかい? イチヤナギ君」

現在信楽と弓彦の二人がいる御剣信法律事務所には、初代の頃から苦いコーヒーしか置かれていない。そんなもの飲めない、と言う弓彦に信楽が与えたのは、コーヒーよりもはるかに多いホットミルクとスティックシュガー二本も注いだカフェオレだった。

「ん、んー……。ああ、結構旨いぞ」
「そりゃあ良かった」

にこりと微笑み、信楽は視線を弓彦から大量の資料を収めた棚へと戻す。
関連事件の資料を貸してあげよう。そう優しく声をかけて、弓彦をここへと連れてきた。何故声をかけたのか、その理由を弓彦本人に尋ねられた時、信楽はこう答えた。

「これはオジサンとイチヤナギ君の裁判に関する事だからね。フェアにいこうよ」

嘘ではないが、真実とも言い切れないなんとも微妙な答えではあった。しかし、弓彦はそれを少しも疑うことなく信楽についてここへとやって来た。キョロキョロとせわしなく視線を動かし、思い出したようにカフェオレを啜る。

「あ、イチヤナギ君これね。言ってた資料」

棚から引き出した全く関係のない資料とすりかえる様にして、左脇に抱えていた資料を手渡す。現在進行中の裁判に関わるそれに、信楽自身はちょうど、今日の裁判へと出かける前に目を通していた。その時、まだ使うかもしれないそれを、いちいち棚に戻したりなどしてはいなかった。

「おお、これか! 信楽弁護士、えーと……ありがとうな!」

事務所の扉を開けるとすぐ、物珍しそうに中を見渡していた弓彦は気がついていないのだろう。
――信楽が、手渡したその資料を所長机から手に取っていた事に。
最初に資料の存在を提示した時から今こうやって渡すまで、弓彦が気がつかない事も含め全てが信楽の思惑通りに進んでいる。その思惑通りに進んでいる事が、ほんの少し信楽を不安にした。しかし、今更後戻りはできない。

「どういたしまして」

弓彦は早速とばかりに中身を取り出しているが、ざざっと目を通すとすぐ元に戻してしまった。まだ半分ほど残っているカフェオレを一気に流し込むと、立ちあがる。

「あれ、もう帰っちゃうの?」
「だってもう、用事は済んだじゃないか」

キョトン、とした顔が信楽を見つめる。

「もうちょっとゆっくりしていかないかい? 折角だしさ」

勿論君が良かったらだけど、と付け加える。すると弓彦はあー、とか、うー、とか声を出して悩み、そして、

「仕方がないな! もうちょっとだけだぞ!」

と、まるで子供の様に胸を張って答えた。
その様子に目を細めると、信楽は弓彦の使っていたマグカップを手に取る。もう一杯差し出せば、それを飲み終わるまで弓彦が帰る事は無いだろう。サーバーからコーヒーを注ぎ、先ほどと同じだけのホットミルクと砂糖を加える。満たされたマグカップを差し出せば、素直に受け取り、またソファに腰を下ろした。

「どうしたんだ?」

信楽は肩をすくめた。
理由なんてものは、最初からはっきりしている。しかし、それを言葉にする事は難しく、そして躊躇われた。
幼児の様にマグカップを両手で包みこんでカフェオレを飲む弓彦の向かいに腰掛ける。そして顎の下で手を組み、目を細めると、信楽は口を開いた。

「それを説明する前に、聞きたい事があるんだ」
「聞きたい事?」

刑務所で出会い、連続した幾つかの事件を共にした。その後も弁護士と検事という職業通り、対決した事もあった。
しかし、こうやって信楽と弓彦が二人きりになる事、ましてや二人だけで会話をするよな事は一度たりとも無かったのではないだろうか。
だから信楽はわざわざ誘いをかけ、二人きりの空間を作った。たった一つの質問をして、その答えを聞く為に。

「ねえ、イチヤナギ君。――レイジくんのこと、どう思ってる?」
「ミツルギ検事? そ、尊敬……? あと凄く、凄く……感謝してる」
「じゃあミカガミちゃんは?」
「ミカガミ? ミカガミはそうだな……なんか、安心する」
「ふむふむ。ならミクモちゃんと刑事くんはどうかな?」
「あの二人……? ま、まあイイ奴らじゃないか? ……ちょっと、ムカつくけど」
「じゃあ」

ごくり、と唾を飲み込む。

「オジサンのことは、どうかな」

弓彦が口を動かすまでの僅かな時間が、信楽には酷く長く感じられた。それはまるで、裁判で判決が下されるあの瞬間にも似ていた。

「え……。その、イイ人だと、思うけど」

下された判決は、信楽にとってある意味有罪判決よりも聞きたくなかったものだった。
イイ人、それはきっと彼にとって、大多数の人間が分類されるであろう位置だと思われたからだ。

「イイ人、か」

予想していた答えではあった。しかしその答えは、信楽を予想以上に動揺させ、落胆させていた。このようにはっきりと本人の口から言われるまでは、どんな確信をもった予想でも、やはりただの予想でしかない。
けれど今、弓彦は信楽の事を自分の言葉でもってイイ人だと評した。ならば彼の中で、信楽盾之という人物はそのカテゴリ以上でも以下でも無い、只の――そう本当に只のイイ人なのだ。

「お、おう……」

突然過ぎる質問をぶつけ続けられた弓彦が、居心地が悪そうに身じろぎをする。それにより倒れた資料のぱたり、という小さな音が、夕日でオレンジ色に染まる事務所内でやけに響いた。

「うん、ありがとうねイチヤナギ君! いやー、ごめんね? いきなりこんな事聞いちゃってさ!」

おどける様な動作を付けて、信楽は弓彦に軽く頭を下げる。明るくなった声に、弓彦がほっと息を吐いた。
少し伏せられた目が、信楽の胸に後悔を湧きあがらせる。
互いの間に横たわるローテーブルの幅ほどしかない距離が、やけに遠く感じた。
そこから手を伸ばす事も、声をかける事も出来ず、ただ弓彦の手の中のカフェオレが無くなるまでのほんの少しの時間を伏し目がちに見守った。
参ったな。そんな顔させるつもりなんてちっとも無かったのに。まだまだ信さんみたいに冷静になんてなれやしない。こんな時こそ笑わなきゃいけないのに。

「じゃ、じゃあ俺、帰る」

そろり、と立ちあがった弓彦の視線は、信楽を見つめる事が出来ず周囲を彷徨う。

「また明日ね。……負けないよ?」
「俺だって!」

そう言って最後に笑顔を見せてくれた事だけが、信楽にとって救いだった。





「信楽弁護士っ!!」

翌日、裁判が終わり、依頼人との面会を済ませ廊下を歩く背中に、先ほどまで争い合っていた弓彦の声がした。
二日目となる本日の裁判は、昨日貸し出した資料が重要な争点となった為、信楽の行動は随分と彼の助けになった事だろう。言葉に詰まりながらも核心に迫る質問と異議を投げかける姿勢は、彼の成長を改めて信楽に感じさせた。ヒヤヒヤする場面も何度かあったが、それでも真剣さと対決の面白さを十分に感じ取れるものだった。
きっと――いや、絶対にとても良い検事になるのだろう。何年後か分からないそれが楽しみだった。
「どうしたの、イチヤナギ君。あ、もしかして資料返してくれるの? 多分まだ使うだろうし、明日が終わるまで持ってて良いよ、あれは」

息を切らす彼に、信楽は優しく声をかける。

「そ、そうじゃないっ」

呼吸も整わないままの弓彦は、その否定通り何も持ってはいなかった。

「あ……んたに、用があって……。ええと、ぜんごんてっかい……だっけ。とにかくそれだ!」
「……前言撤回、かな?」
「そう、それだ!」

びしり、と先ほどまでのようにポーズをとる。そして何とか荒い息を整えると、決意をするように息を長く吐き、信楽を見つめる。
裁判の時とは違う真剣さを含んだそれに、信楽は一瞬怯み、そしてほんの少し視線を逸らした。

「立ち話もアレだし、どこか座るかい?」

提案に弓彦はこくりと頷くと、ぐいぐいと信楽の腕を引っ張って控室のソファへと座った。しん、と静まりかえった控室は、信楽を否定している様に感じられた。勿論それは、緊張しきった信楽の被害妄想に過ぎないのだろうが。

「アンタは、イイ人なんかじゃなかった」

左隣から発せられた呟く程度の声量の言葉が、ぐさりと信楽の心に刺さる。

「ありゃりゃ……、手厳しいな。オジサン何かしちゃったかな」

とぼける様な台詞を吐いてみるが、随分と白々しかった。イイ人じゃないと言われる様な事をしでかしているのは、信楽自身が一番よく分かっている。

「昨日、アンタがあんな事言うから俺、全然資料読めなくて、今日も失敗したし、きっとこのままじゃ明日だって……」

ぼろり、と茶の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。一度こぼれてしまった涙は止まる事なく、ぼろりぼろりと落ち続ける。
それを拭おうとポケットからハンカチを取り出し、腰を浮かしかけて、信楽の動きが止まる。それをしてやる資格が自分にあるのだろうか?

「い、イチヤナギ君、落ち着いて。ね?」
「落ち着いてられるかよぉ! もうアンタの所為で昨日は全然だったのに!」

先ほどから弓彦の口が紡ぐ言葉が示すのは、一つの事実。

「ちょ、ちょっと待ってよ。資料全然読めなかったの? 本当に?」
「嘘吐いてどうするんだよそんなの!」

潤んだ目を見開いて叫ぶその様子に、嘘を吐いている可能性なぞ微塵も見当たらない。そもそも、嘘を吐く様な性格ではない事くらい、初対面の時から知っていた。となると、今日の裁判でのやり取りの半分以上は、下準備無しに近かったのだろか。
それであれだけのやり取りが出来たのならば、十分すぎはしないだろうか。

「まずは、謝らせて欲しい。キミの心を乱す様な事を言ってしまって、すまなかった」

すっかり自分のものとなった帽子とお辞儀で謝罪を述べる。

「なんで、あんな事言ったんだよ」
「そりゃ、聞きたかったからさ。オジサンがイチヤナギ君、キミにどう思われているのかをね」

御剣も水鏡も、そして美雲も糸鋸も弓彦の中では何かしらのポジションを与えられていた。しかし、信楽はどうだっただろうか。

「オジサンの中ではさ、イチヤナギ君は特別なんだよ」

特別になったのは、何時からだったろう。あの一連の事件が終わって心に余裕が出来た頃には、既にそうだった様な気がする。
それが膨らみに膨らんだ結果が、昨日の質問だった。どうにもずるい大人に育ってしまった信楽には、自分から気持ちを切り出す事がどうしても出来なかった。

「特別?」
「そ、特別。イチヤナギ君っぽく言うなら、一番かな。でも、キミはそうじゃないんだろうって知ってたけどね」

昨日、あんな質問をする前から、薄々は感じていた事だった。

「オジサンもさ、その割には年甲斐も無く何か期待しちゃってたんだろうね。だから、あんな事を聞いちゃったんだ」
「……」

本当にごめんね、と呟いた。何度謝罪を述べたところで、言ってしまった事実は変わらない。

「……どうしたら良いかな。きっと、謝って欲しいってイチヤナギ君は思ってる訳じゃなさそうだけど」
「さっきから言ってるだろ! アンタがあんな事聞くから! 聞くから……」

ぐずぐずと鼻をすする音は一向に止まない。

「聞くから、頭の中ぐちゃぐちゃだ。……責任、とれよ」

そこまで言うと、子供の様に膝を抱えて肩を震わせる。

「責任、か」

発言には責任が伴う。そんな当たり前の事すら忘れて、あんな質問をした自分を恥じた。

「うん、イチヤナギ君の言う通りだ。オジサンは責任を取らなくちゃいけない。でも……どうしたら良いかな? イチヤナギ君はどうしたら納得してくれるかな」
「……何であんな事言ったのか、ちゃんと分かるように言ってくれよ」
「キミがそうして欲しいというなら、……言うしかないね」

迷ったり、隠す事はもう出来ない。もう率直な文章にしてしまうしかなかった。

「特別、一番――そう、キミの事が好きなんだ。勿論ライクじゃない方の意味で。だから、どう思われてるのか知りたくて、聞いたんだ」

ゆっくりと噛みしめる様にそう言うと、信楽は長い息を吐いた。これでもう、戻れない。
しかし、昨日よりは気持ちは晴れやかだった。

「ごめんね」

未だ表情の見えない弓彦に、再度謝罪の言葉を述べる。

「……俺さ、一個だけ嘘吐いたんだ」

膝に頭を埋めた弓彦が、少し動いて信楽を窺う。弓彦の潤んだ視界に入ったのは、何時も通りに笑いつつも、自分以上に泣きそうな信楽の顔だった。

「嘘?」
「いきなりあんな事聞いてきたから、つい。でも、やっぱり本当の事言っちゃ駄目だと思って、だから嘘吐いた」

ごめんなさい、と呟くと、弓彦が顔をあげる。その目にはまだ涙が浮かんでいたが、笑顔だった。

「俺こそ、責任取らないとだ。……嘘吐くとかさ、駄目だよな。検事なのに」
「そんな事ないさ。検事でも弁護士とか関係ないよ。こういうのはさ」

身体の力を抜いて、背もたれに寄り掛かる。弓彦もそれに倣う様に、抱えていた膝を伸ばした。

「で、さイチヤナギ君。聞いていい? ……本当の事を言ったなら、なんて答えてくれたの?」
「……!」
「責任とってくれるんでしょ?」

意地悪く笑顔を浮かべる。やはり自分はずるい大人なのだと、信楽は思った。

「そ、その……アレだ。アレだよ。アレ」
「アレ、じゃ分かんないよ。オジサンに分かるように言ってよ。……ここじゃ言いにくいのなら、どう? またカフェオレでも飲みながら、さ」
「お、おう! じゃあそうする!」

弓彦はばね仕掛けのおもちゃの様に立ちあがる。信楽はその姿を眺めながら、ゆっくりと立ちあがり、彼へと手を差し出した。

「さて、行こうか。楽しみだなあ。……うん、やっぱり何かしないと、始まんないよね」

きっと信楽だけの特別が、もうすぐ手に入るのだろう。いや、もう手の中にあるも同然だろうか。

「お、おう。早く行こうぜ」
少しぎくしゃくとした動きで自分の手を掴んだ弓彦の顔には、もう涙は無かった。