白黒的絡繰機譚

麻痺

自分の全てが麻痺してしまった自覚がある。
自覚があるからこそ、受け入れているのだろうと草太は思っていた。そうでなければ、こんな事なんのメリットも無い事をする筈がないのだ、と。

「ムリムリムリ……!」

何時もの様に口を隠して拒否を示せば、草太の目の前の男は盛大に舌打ちをした。

「何が無理だってんだよ」
「だって……、やっぱりムリムリムリ!」

口を隠す両手に力を込める。そうでないと笑いだしてしまいそうだった。
目の前の男――内藤馬乃介は、草太にとって道化に等しい。あんな事をしておいて、唯一無二の親友だと口にするのだから。
やった本人は忘れているのだろうが、18年前に起こった事を草太ははっきりと覚えている。お互いの泣き声と刺すような空気の冷たさ。朦朧とした意識と絶望に包まれた草太を救ってくれたのは、父親でも馬乃介でもなかった。

「今更だろ」

そう、本当に今更だ。慌てふためきながら拒否する事を、草太は何度繰り返したのだろう。その度に馬乃介は舌打ちをし、けれど決して引かなかった。
欲しいと思ったものは手に入れなければ気が済まないのだろう。――父親と同じように。
しかし、馬乃介はその事実を知らない。哀れな男だと草太は思った。哀れな男だと思っているからこそ、こんな事に付き合ってやっているのだが。掌の下で薄く笑う。

「でも馬乃介……」
「なんだよ」
「僕たち、友達だろう……?」

自分で口にしながら、その言葉はとても滑稽だった。そんな事は微塵も思っていないのに、よくもいけしゃあしゃあと口に出せるものだと。しかし、そんな言葉でも馬乃介には効果があったらしく、一瞬怯んだのが分かった。
「……」
「馬乃介?」
「……今は違う」

草太の腕を割り入る様にして、馬乃介の手が頬を包む。掌の体温と共に伝わる指輪の中途半端な冷たさが、草太には不快だった。

「手、どけろよ」
「馬乃介、だから」
「無理じゃねぇだろ。草太、俺には――」

そこに続く言葉は知っていた。馬乃介の事を哀れだと思っているからだろうか、感情も感覚も麻痺している自覚があるというのに、草太はそれを聞くとどうしても拒みきれなくななってしまう。
張り付けていた笑みが消えていく様な気がした。そろそろと口から手を離し、目を瞑る。見たくないからじゃない、そういうものだからと誰に聞かせるでもない言い訳をしながら。

「お前しか、いないんだ」

その言葉と共に馬乃介が触れた唇は、やはり麻痺しているのか何も感じなかった。




****




「――どうした小僧、次の手が浮かばぬか?」
「!ちが……っ」
「ほう、そうか。ならどうしたかの」

草太の前で愛犬を撫でる男――了賢の目は、どうしたかと問いかけながらそれを分かっている様だった。
ぎり、と唇を噛むと、草太は駒を動かす。白のポーンは一歩、敵陣へと近付いた。動かした位置を口頭で伝えると、了賢は愛犬を撫でることを止め、見えない目で盤上を見つめる。
あの女――美和マリーが刑務所の所長から住民になって久しいが、それでもなお刑務所内での了賢の権力は衰えていない様だった。
その証拠に、監視付きとはいえ草太を自分の独房へと招き入れ、こうしてチェスを行っている。

「……どうもしない、です」
「そうは思えぬがの。今更後悔でもしておるのか?」
「まさか!」

そう、後悔はしていない。美和マリーも一柳万才も大統領も全員、そうなってしかるべき人物だったのだ。

「……」

了賢は黒のビショップを手に取り、動かした。その位置に草太は内心舌打ちをする。そう切り込まれる事は分かっていた筈なのに、防げなかった。
――馬乃介ならきっと、いや絶対に防いでいただろう。

「お主のチェスの腕は、まだまだのようだの」
「……みたいですね。了賢さんには、敵わない」
「わしとてまだまだだがの。通信チェスの……内藤といったか、そやつは手ごわかった」
「でしょうね。アイツは、強かった」

それは本心だった。好きこそものの上手なれとはよくいったもので、馬乃介は本当にチェスが好きで、アマチュアとしては十分強かっただろう。
戦争を模した、争いの遊戯が好きだったのは、馬乃介の荒々しい野心溢れる性格をよく表していた。
馬乃介に付き合ってチェスをすることの多かった草太だが、彼自身はチェスを好きか嫌いかと聞かれたのならば、どちらでもないと答えるしかなかった。
駒を自分の思い通りに操る遊び――それは盤上の事だけではなく、自分が犯した罪に重なる――は手慣れたものだったが。
白の駒をどう動かすべきかと迷い、草太の手がふらふらと盤上を彷徨う。集中しなければと思えば思うほど、描いていた筈の戦略が頭からこぼれ落ちていくような気がした。
公式戦ではないので時間に制限がある訳ではないが、了賢を待たせてしまう事は忍びなく、そして期待に背く様で嫌だった。自分には、この人しかいないというのに。
チラリ、と了賢の顔を窺うと、笑っている様であった。そしてその白く濁った眼は、草太の全てを分かっているとのだろうと、そう思えてならなかった。

「了賢さん……」
「どうした、小僧?」
「……」

呼びかけておきながら、言葉が継げなかった。了賢はまた愛犬を撫でながら、ひとり言のように呟き始めた。

「チェスと将棋はよう似ておるが、取った駒を使う事が出来ぬという違いがある……。戦争を模した遊戯らしいとは思わぬか?駒を取るという事は即ち殺す。……そういう事よの」
「……」
「お主もチェスをした、という事よ。分かっておるとは思うがの。失った駒はもう戻らん」
「失った駒……」

自分が失った駒とは何か。その答えはもう出ている。了賢もそれを知っているのだろう。
草太は白のナイトを手に取る。それを動かすと、息を吐いた。やっと盤上の流れが見えてきた様な気がする。
位置を了賢に伝えると、満足そうに笑い、愛犬を撫でる。

「小僧、中々……嫌らしい手を打つの」
「アイツは、こんな打ち方してたな……って」
「そうか、あの男がの……」
「最後に、アイツともう一回チェスをしておけば良かった。……今俺は、そう思うんです。了賢さん……」

友情なぞ、感じていなかった。それは今でも断言できる。しかし、麻痺して機能を停止した筈のものが、何故か疼くのだ。その正体すら把握していない癖に、疼いている事だけは理解できていた。

「そうか。ククッ……、ワシも通信チェスの決着がつかなかった事は残念でならん」
「……」

了賢の言葉に草太は顔を伏せた。それを覗きこんだ愛犬が鼻を鳴らすと、了賢は盤の脇から大きな三つ首の犬の駒を取り出し、中央に置いた。

「小僧、今日はここまでにしようかの」
「え……」
「なあに、急く事はない。時間はあるのだから……。ゆるりと楽しまなければ、の?」
「……はい」

了賢にそう言われれば、草太は異議を唱える事が出来ない。了賢という人物は、草太の中で絶対だ。

「――そうじゃ、小僧」

看守と共に了賢の独房を出ようとすると、了賢が草太を呼んだ。

「失った駒は戻らんが、失わずに済む駒を捨てるのは愚か者のする事だと――そうは、思わんか?」
「……」

ガシャン、と音を立てて扉が閉まる。その音と共に彼の愛犬が明かりを落とす。
闇の中ではコツコツとノミを振るう音だけが響く。

「了賢さん」
「……」

返事はない。闇を見つめたまま動かぬ草太を、看守が訝しそうな目で眺めている。

「俺には、貴方しかいないんだ。――今は、もう」

麻痺していた何かに、熱と感覚が戻っていく様な気がする。あの時気が付いていれば何か変わっただろうか。
いや、変わらなかっただろう。きっとあの日――馬乃介が死んだ日に、泣いたか笑ったか程度の違いしかない。

「今になって後悔してるのかもしれない。アイツの事だけは……」

掠れた声を絞り出すと、草太は看守と共に歩きだした。
両手にはめられたセンサーの金属が、体温で中途半端に温められて、それがやはり不快だった。頬に当たった指輪や、触れた唇が思い出されて、麻痺が治ってしまう。
今までの様にずっと麻痺していれば良かったのに。

――遠くなった暗闇の奥から、満足そうな笑い声が聞こえた様な気がした。