白黒的絡繰機譚

案ずるより噛むが易し

『要求じゃねぇ、当然の事さ』と貴方は言うけれど。

「龍一」

紆余曲折、山あり谷あり、すったもんだ……そんな感じの事を経て、今に至る。
それは僕にとって夢みたいに思える程突飛だったけれど……、それが夢じゃないという証拠は目の前にある。いや、いる。
僕の仕事場に突然やって来たその人は、睨む様に僕を見ている。

「龍一」
「狼捜査官」

溜息を吐きつつ、彼を呼ぶ。事務所のソファにどっかりと座りこんだ狼捜査官は、片眉をあげて僕の声に反応しつつも、睨むような表情を崩しはしない。
不機嫌丸出し、ってやつだ。表情だけじゃ収まらないそれは、僕の身体をちくちくと刺す。

「……なんですか。何かあるなら言えば良いじゃないですか。狼捜査官らしくない」
「そうだな。察してくれ、なんてのは俺らしくねぇ。単刀直入に言うぜ。龍一、オマエは何時まで俺を『狼捜査官』なんて他人行儀な呼び方で呼ぶつもりだ?」

ビシッ、とポーズを決めて言われたのは、そんな事。
御剣と違ってこのポーズを捜査や法廷なんかで対峙した事はないけど……、ハッキリ言って心臓に悪いと思う。なんか間違えた!?ってドキドキする。
……本当は、違う意味でもドキドキするべきなんだろうけどさ。いや、全くしてない訳じゃないよ?

「と、言われても……」
「おっと、言い訳は無しだぜ? 龍一」

狼捜査官は僕の名前を呼ぶ。龍一、と名前を呼ばれる機会なんて狩魔検事がフルネームで呼んでくるとき以外には無い。
更にはこの人の声は、狩魔検事の声と違って優しく――熱を持っている。
うかつに返事をすると、開けたその口で食べられてしまうんじゃないかと感じるその熱は、まさしく彼が僕からの呼び名に不満を持つ原因から来ている。

「恋人――いや、伴侶の名前を呼べねぇ理由なんか、無い筈だろ?」

そう言われてしまえば、僕には反論が出来ない。いや、したところで『アマいな!』と返されて終わるのが目に見えてると言うのが正しいか。
伴侶、という呼び方はさておき、僕と狼捜査官が恋愛関係にあるのは事実だ。紆余曲折、山あり谷あり、すったもんだ。そんな感じの言葉が似合う日々の結末……いや、スタートか。
まだ僕は少し、この状況を飲みこみきれてないところがある、と思う。そして覚悟しきれていないところも。

「まあ無いですけど……」

そう、理由は無い。言い訳がましいもの以外は。

「じゃあ呼びな」
「……」

ごくり、と唾を飲み込む。
悪あがきだと理解していたけれど、それでも今まで逃げてきた。

「……士龍さん」

士龍さん、そう呼ぶ事自体に抵抗があるって訳じゃない。抵抗があるのは、呼んでしまった後の自分自身についてだ。

「おう、龍一」

狼捜査官は満足そうな表情を浮かべる。
多分、変な葛藤や意地を張っているのは僕の方だけなんだ。この人は信じてる事を隠したり曲げたりする人じゃないから。

「なんだか……、悔しいです」

勝手に焦って、勝手に意地を張って、勝手に悔しがっている。
僕はなんて不恰好なんだろう。そんな事とっくに自覚しているけれど。

「ん?」

椅子から立ち上がって、ソファの方へと向かう。
狼捜査官の隣に腰を下ろして、見つめる。不思議そうな顔をしていた。
このまま何も言わなかったら、この人は僕と同じくらい悩んでくれるだろうか。……無理か。その前に実力行使に出て、喋らされてしまうだろう。

「僕、恋愛にのめり込み過ぎない方が良い性格なんです。だから」
「名前で呼びたくなかった……、そういう事か?」
「……そうです」

大学生時代のあの時の様に表だって浮かれはしないけど、心の中にはのめりこんでしまうであろう予感が渦巻いている。
性別的にも、職業的にも不安定なこの恋愛にはきっと、のめりこまない方が良い。そんな気持ちがあって。

「……っは! 龍一は随分可愛い事思ってんだな」
「か、かわ……っ!?」

ちょっと待って欲しい。イイ歳した男がそんな事言われても、傷つく。

「狼子曰く!“案ずるより噛むが易し”……誰だってそんなもんさ、龍一」

狼捜査官が僕を引き寄せる。

「のめり込み過ぎたから何だってんだ? どうせ底も終わりも無いんだぜ。いくらだってのめり込みゃいい……。不安だって言うなら、全部俺の所為にすりゃ良いさ」

『だから、安心してどこまでも俺に惚れて良いぜ』
そう言ってニィ、と笑った狼捜査官――士龍さんは、声に出さないけれど僕に要求をしている。
そりゃただ呼ぶだけなんだけれど……。サイコ・ロックの錠前じゃないけれど、僕にははっきり見えてるものがある。
……ま、見えたところでどうしようもないんだけどね。

「士龍さん」

また名前を呼ぶと、士龍さんは満足そうに笑って僕に手を伸ばす。
こういう顔をすると、狼っていうより大型犬みたい――なんて言ったら、噛まれてしまうんだろうか。

「龍一」

きっと僕は、名前を呼ぶ度に呼ばれる度に、貴方にのめり込んでいく。