白黒的絡繰機譚

青を抱いて朝

目を覚ます。視界に映るのは、ヤニの染み付いた見慣れた天井だ。アルコールの抜け切らない頭で、ザップは昨晩の出来事を反芻する。そして、決して広くはないベッドの隣が空なのに気がついた。

「……またか」

気分が最悪へと傾いていく。今日も一日、碌でもない日になるだろうと思った。





「おはようございます。また遅刻ですか」
職場であるライブラ本部へ足を踏み入れると、ザップの気分を最悪へと導いた原因である弟弟子が刺々しい声で出迎えた。昨晩は何もなかった、と言わんばかりの表情と物言いに、ザップは葉巻をギリギリと噛みしめる。
――昨晩、ザップはツェッドを抱いた。
初めてのことではない。普段は何かと反抗的な口が、無言で愛車に乗るように促しても文句一つ発しなくなったのも、それなりに前のことだ。最初のうちは死んでも声なんか出すもんか、と血が出るまで噛み締めていた指も、今は意趣返しだとばかりにザップの背中に傷をつけるようになっている。
ではどうしてそうなったのか、と問われるとザップに明確な答えは浮かばない。何故だか分からないけれど、他の女たちと同じように欲しいと思ったのだろう。ただ、他の女たちより執着している自覚がある。不本意なことに、だが。

「オイ魚類、ちょっと面貸せや」
「謝罪もなく人を顎で呼ばないでください」

だが、ザップにそういう自覚があるというのに、ツェッドの方はというとそれが分からない。ザップとのセックスが嫌だというわけではないのは分かるのだが、そこにザップのような執着めいた感情が見えないのだ。
別に愛を囁き合う甘ったるいピロートークがしたいわけでも、起き抜けから遅刻を確実にする触れ合いをしたいわけでもない。お互いにそういう柄でもないのは百も承知だ。
けれども、とザップは心の中で吐き捨てる。置き手紙もメールも挨拶もない朝ばかりを迎えさせられたら、問いかけたくもなる。

「ザップさん、朝から喧嘩とかやめてくださいよ……」

ひたすらツェッドを睨みつけるザップに、ソファに座っていたレオナルドが呆れた声を上げた。

「別に殺る気なんざねぇっつの。オラこっち来い」
「ちょっと!」

ザップは大股でツェッドに歩み寄ると、そのまま腕を引いて温室の方へと消えていった。それを見送るしかなかったレオナルドは、肩の上の音速猿と共に小さく溜息を吐いた。

「……オメー、何でいつもそうなんだ」
「はい?」

乱暴に閉めた扉に押し付けて、ザップは尋ねる。と言っても、主語の抜けたそれが通じるわけもなく。何を尋ねられているのか分からない、という顔をするツェッドに、ザップの機嫌はますます降下していく。

「いつも!俺が寝てる間に帰るだろ!」
「ええ、はい。そうですけど。それが何か」

ツェッドが不思議そうに首を傾げる。何を今更、とでも思っているのだろうか。確かに今更だ。だが、ザップにはその今更が気になって仕方ない。独占欲が全てを己の視界に入れたいと望んでいる。

「何か、じゃねぇだろ。フツーはよ、そのまま寝ちまえばいいんだよ。ヤったらな」
「はあ。と言われても……」

それは無理です。と、ツェッドは言う。不機嫌の底の更に底まで落ちていくのが伝わったのか「別に貴方に何か落ち度があるわけではなく」と続ける。

「じゃあ何だってンだ」
「実はですね」

ツェッドはいつも通りの口調で告げる。

「僕、水中じゃないとちゃんと眠れないんです。やっぱりどうにも、苦しくて」

――がん、とザップは頭を殴られたような気がした。
ツェッドがエアギルス無しに陸上生活を送れないことは、重々承知している。しかし、逆に『それさえあれば何の問題もない』と思っていた。
それが、今ツェッドは何と言った?
二の句が接げないザップに少し申し訳無さそうな顔をしつつ、ツェッドは「僕の都合なので、気にしないでください」と言った。それに生返事をしつつ、ザップは漸く掴んだままだった腕を開放する。ぐるぐるとツェッドの言葉が頭を回って、どうしたらいいのかわからない。
そのままの体勢で気まずく固まっていた二人は、扉の向こうから名前を呼ぶレオナルドの声で漸く正気に戻る。ザップより先に、ツェッドがそれに返事をして温室を後にした。

「……」

ザップはその後も暫く、背後にある水槽を見つめていた。





その後のザップは、レオナルドもツェッドも拍子抜けするくらい通常通りだった。周りに当たり散らすでもなく、ツェッドに通常以上に突っかかるでもなく、寧ろ少々大人しかったぐらいだ。
だから、ツェッドも出動後そのまま解散となった後、昨日と同じくザップが愛車に乗るよう促してくるなんて思いもしなかった。困惑はしたものの、その促しを断るという選択肢がないのは何故だろう、とザップの背中で考える。この後、高速で走った道を、一人歩いて帰ることになるというのに。
しかし、ザップの表情だけが昨日と違う。――これは何か企んでいる、とツェッドは思った。

「あの、貴方……怒ってるんです?」

ぎしり、と着くやいなやベッドに押し倒されたツェッドが尋ねる。

「怒って……はねぇな。じゃあ何だって言われても分かんねぇけど」
「はあ」
「あー……そういや、もう十分天国は見せてやったよな」

確かに初めて抱かれた夜、ザップは抵抗するツェッドに「天国を見せてやる」と言った。だが、それが今どうして出てくるのか。
疑問符を浮かべるツェッドを無視して、だから今日は、とザップは笑う。

「天国の向こう側を見せてやる」

ああ、とツェッドは観念して身体の力を抜く。この兄弟子は口に出したことをいとも容易く行えるタイプの生き物だと、身を持って知らされているのだから。





目を覚ます。視界に映るのは、見慣れた月光を反射する水面だ。状況の飲み込めない頭で、ツェッドはこの夜の出来事を反芻する。そして、水面に何かがずるりと入り込んできたことに気がついた。

「……あれは」

水を掻いて浮上していく。入り込んできたそれを掴んで、そのまま顔を水上へと出した。
掴んでいたもの――ザップの腕を水槽の外へと出してやる。本体は水槽の縁に額を預けるようにして眠っていた。

「ちょっと、起きてください」

肩を揺すってみるが、起きる気配はない。こんな体勢でよく眠れるものだ、とツェッドは感心する。最も、修行時に比べればよっぽど眠りやすい環境だろう。きっとそれが染み付いているのだ。
しかし、だからといってこのままにしておく訳にもいかない。今は腕だけで済んだが、いつ身体ごと落下してきてもおかしくはない体勢だ。根気よく揺さぶりながら声をかけ続けると、ようやくザップが顔を上げた。

「……あ?」
「あ?じゃないです。貴方もしかして、僕をわざわざここまで運んだんですか」

ザップの宣言した「天国の向こう側を見せてやる」の言葉通りに、今までの比ではないくらいに滅茶苦茶にされたツェッドは、ついに彼の下で意識をふっ飛ばした。そうして気が付くと見慣れた水槽である。犯人はどう考えても一人しかいない。
ザップはツェッドの問いに答えず、ぶるりと身体を震わせる。

「ってかここ寒くね?」
「まだ夜ですし、人類には少し肌寒いでしょうね。寝るなら仮眠室へ行ってください」

ツェッドの水槽の設置されている温室は、壁がタイル張りな事もあってか夜になれば急激に気温が下がる。ツェッドには心地良くとも、人類であるザップが睡眠を取るには適さないだろう。だが、ザップは不機嫌そうに顔を歪める。

「行くかバーカ」
「あのですね、こっちは貴方の体調を心配して」

やけに真剣な瞳がツェッドを射抜く。言葉が続けられなくなる。

「お前はここで寝るんだろ。だから俺も、ここで、寝る!」

ぴちゃん、と水面が揺れた。普段は気にならない水槽の濾過音が気になって仕方がない。

「……貴方、そのために僕に無体を働いたんです?」
「無体ってなんだよ無体って。ひゃんひゃん喘いでた癖によ」
「それはまあ……否定しませんが。でもだからと言ってあんな方法を取らなくとも」

後始末をして、意識のない身体に服を着せて愛車に乗せて。そこまでした理由がただ自分と一緒に眠るだけだと真剣に言うザップは、ツェッドにとって未知の塊だ。理解が出来ない。
けれども、嫌ではない。

「……人間性の割に貴方に女性が途切れなかった理由が、分かった気がします」
「んだと!?」
「待ってますから、毛布くらい取ってきてください。あと落ちてこられると困るので、階段下で寝てくださいね」
「……お、おう」

腕を枕にし、水槽に沿うようにしてザップが寝転がる。ツェッドはガラスを挟んでその胸に頭を預けるようにして身体を丸める。普段浮力に身体を預けて眠りにつく身としては、硬い底面に違和感を覚えるが不思議と一人浮かび上がろうとは思わなかった。

「……おやすみなさい」
「おう、オヤスミ」

このむず痒い感情は、確かに天国の向こう側かもしれないと思いながらツェッドはとろとろと眠気に身を任せた。





目を覚ます。視界に映るのは、安らかな青だ。ガチガチになった身体で、ザップは数時間前の事を反芻する。そしてぺたり、と分厚いガラスに手のひらをくっつけて呟く。

「気持ちよさそうに寝やがって」

気分がぐんと上向いていく。今日は一日、上機嫌で過ごせそうだと思った。